青島要塞爆撃命令

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青島要塞爆撃命令
監督
脚本 須崎勝彌
製作 田中友幸
出演者
音楽 松井八郎
撮影
編集 黒岩義民
製作会社 東宝[1]
配給 東宝[1][2]
公開 日本の旗 1963年5月29日[出典 1]
上映時間 99分[出典 2]
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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青島要塞爆撃命令』(チンタオようさいばくげきめいれい)は、1963年昭和38年)5月29日東宝が製作した戦争映画[4]東宝スコープ、カラー作品[3]。併映は「社長シリーズ」の一本である『続・社長外遊記』(監督:松林宗恵)。

海外では"Siege of fort bismarck"のタイトルで公開された。

解説[編集]

日本映画としては珍しく、第一次世界大戦を扱った作品[出典 3]青島の戦い日独戦争)を題材に、日本初の海軍航空隊としてドイツ帝国軍に立ち向かった若者たちを描く[4]。従来の戦争映画のような悲劇性は抑えられ、スパイ活劇として描かれている[7][6]

監督の古澤憲吾と特技監督の円谷英二は本作品で初めて組んでおり、後に映画『大冒険』も手掛けた[2]

劇中のドイツ兵のセリフは、画面の隅に並ぶ通常の日本語字幕に加え、画面いっぱいに「敵は勇敢だ!」「底抜けに勇敢だ!」といった手書きの字幕が広がるなど、他の作品には見られない演出がなされている。

あらすじ[編集]

今から49年前、バルカン半島に端を発した第一次世界大戦の影響は、遠く極東にも及ぶこととなった。ドイツが中国の膠州湾一帯を租借地にしており、青島をアジア侵出への拠点としたからだ。日本は日英同盟から連合国として参戦を要求され、青島攻略の主力として立ち向かう。だがビスマルク要塞には巨大砲台が設置され、日本海軍が誇る連合艦隊ですらも接近は難しく、攻略は困難を極める。そんな折、連合艦隊・加藤定吉長官によって急遽白羽の矢が立てられたのは、「追浜海軍航空術研究所」に駐屯する、まだ黎明期の飛行隊だった。その部隊も、編成は2機のファルマン水上機と大杉少佐以下、飛行機に乗ったことのない庄司を含むパイロットが計5名のみ。だが部隊の存続を掛け、大杉は出撃を決意する。大正3年9月下旬、甲板に複葉機を積載した輸送艦・若宮丸は世界初の航空母艦となり、一路青島を目指した。

そしてついに要塞に対する初の出撃のときが来た。大杉・国井が乗るモ式水上機は爆弾が間に合わず、煉瓦や五寸釘を搭載しながらも、若宮丸乗組員の熱烈な送別を背に発進した。エアポケットに嵌り、国井が切れたワイヤを翼上で繋ぎながら、何とか敵の頭上から煉瓦や五寸釘を投下し、要塞の偵察を行なう。しかしそこへ敵のタウベが飛来。機関銃で武装するタウベに対し、モ式は拳銃しか自衛武装が無く、曲技飛行で挑発するタウベを尻目に退散を余儀なくされる。その後、出撃のたびに湾内に進入する危険を防ぐために、飛行隊は湾内に近い霊山島に拠点を設置した。真木が窮地を救った娘・楊白麗ら島民の「祭がしたい」との要望に大杉は応える。が、瓶入りの手紙から島民にスパイがいることが判明する。そして祭りの夜、白麗の兄である趙英俊はジャンクに火を放ち、若宮丸を撃沈しようと企んだ。火だるまのジャンクが若宮丸に迫る中、庄司は海に飛び込んでジャンクの舳先を変えようとしたままジャンクの爆発に巻き込まれて戦死。英俊も二宮の手によって射殺された。司令部は白麗の処分を島の部隊に要求したが、大杉たちは架空の海軍刑法123条に基づいて白麗を大陸追放とした。

大杉は、機関銃手が乗った2号機がタウベをおびき寄せた間に、1号機に吊った爆弾を投下する戦法を考案。出撃して作戦を実行するが、投下した爆弾は1発も命中せず失敗。しかも、二宮・真木を乗せた2号機はタウベの機関銃手を射殺したが、エンジンに被弾して墜落。二宮と真木は雑貨屋に逃れるが、懸賞金が出ていた2人は店主によってドイツ軍に突き出されて捕虜になってしまう。地下牢に入れられた2人の前に現れた白麗は、2人に死刑を宣告。しかし処刑場に向かう途中、白麗は2人とともに逃亡する。

一方、青島攻略開始から1か月が経過し、ドイツ極東艦隊が膠州湾に接近するにつれて、艦隊でも航空機に頼らずに総攻撃を行なうべきとの意見が大勢を占めつつあった。加藤長官は飛行機が時期尚早であったと悟り、若宮丸を運送船に降格しての総攻撃を決定する。そんな中、真木のみが若宮丸に帰還。大杉らは残った1機を爆弾無搭載で離陸させ、海岸に着水後燃料と爆弾を補給してからビスマルク要塞の弾薬庫を爆撃する作戦を考案する。大杉は補給隊を指揮して上陸、ドイツ兵の目を欺きながら補給地点に向かう。だがそのころ、若宮丸は触雷して沈没。海上に浮かんだ水上機は、漂流する若宮丸乗組員たちの激励を受け、弾薬庫爆撃に向かって離陸した。

出演者[編集]

参照[1][8]

スタッフ[編集]

参照[1][3]

特殊撮影[編集]

特撮[編集]

撮影にあたっては、モ式ロ号水上機ルンプラー・タウベの翼長1メートル以上の精巧なミニチュアに加え、プロペラが回る本編撮影用の実物大モデルが製作された[出典 4]。どちらも撮影はセットのほか、富士山ではヘリコプターから吊って行われた[出典 4]。モ式ロ号水上機の実物大モデルは、大日本飛行協会で保存していた分解状態の実機を借りて復元図面を起こし、グライダー専門の職人によって組み立てられた[10]

また、若宮丸も実際に貨物船を使用して撮影されている。艦上のシーンは、三笠公園で保存されている戦艦「三笠」で撮影されている。

ビスマルク要塞のセットは、御殿場に1/10スケールの巨大なオープンセットが組まれた[11]。このセットは、美術の井上泰幸がテント生活をしながら1か月かけて完成させたものであった[11]。スタジオにも1/25スケールのセットが組まれた[11]

オープンセットでは、ヘリコプターからの空撮も行われた[出典 5]。しかし、本番時にはヘリから火薬の位置がわからなくなり、撮影のタイミングが合ったのは10発中4発程度であった[12][9]。また、現場の手違いにより、使用された火薬の量が予定の半分になってしまっていた[2]。特殊効果の渡辺忠昭によれば、同シーンで初めてセメント爆発を用いているが、通常の爆発よりも音が小さかったため、特技監督の円谷英二は激怒したという[13][14]。しかし、ラッシュでは迫力を出せていたため、以後のセメント爆発は定番の手法となっていった[14]

クライマックスに登場する弾丸運搬列車(蒸気機関車)は、特注でガソリンエンジンを搭載した鋼鉄製のミニチュアが作られ、『ゴジラ』でも部分的に用いられた無人カメラで撮影された[出典 4]。しかし、オープンセットの傾斜を登れず、カメラを傾けたり、トンネルの奥から線で引っ張ったりして撮影した[7]。このミニチュアは、2012年のイベント『館長 庵野秀明特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技』で展示された[15]

映像ソフト[編集]

東宝からビデオが発売された(解説:山根貞男)ほか、2007年にはDVD化された。

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 映画資料室”. viewer.kintoneapp.com. 2022年2月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 円谷英二特撮世界 2001, pp. 96–97, 「青島要塞爆撃命令」
  3. ^ a b c d 東宝特撮映画全史 1983, p. 546, 「東宝特撮映画作品リスト」
  4. ^ a b c d e 日本特撮映画図鑑 1999, pp. 93–94, 「青島要塞爆撃命令」
  5. ^ a b 東宝ゴジラ会 2010, p. 296, 「円谷組作品紹介」
  6. ^ a b ゴジラ大全集 1994, pp. 60–61, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 ゴジラの復活」
  7. ^ a b c 東宝特撮映画全史 1983, pp. 246–247, 「東宝特撮映画作品史 青島要塞爆撃命令」
  8. ^ a b 東宝特撮映画全史 1983, p. 536, 「主要特撮作品配役リスト」
  9. ^ a b c 『日本特撮・幻想映画全集』勁文社、1997年、143頁。ISBN 4766927060 
  10. ^ 池田憲章、金田益美、伊藤秀明「日本特撮マイスターFILE 特殊美術、ミニチュア設計 入江義夫」『宇宙船』Vol.112(2004年5月号)、朝日ソノラマ、2004年5月1日、119-121頁、雑誌コード:01843-05。 
  11. ^ a b c 東宝特撮映画全史 1983, p. 79, 「中野昭慶 爛熟期の特撮スタッフたち」
  12. ^ a b 東宝特撮映画全史 1983, pp. 248–249, 「東宝特撮映画作品史 青島要塞爆撃命令」
  13. ^ 東宝ゴジラ会 2010, p. 213, 「第二章 円谷組スタッフインタビュー INTERVIEW15 鈴木儀雄 渡辺忠昭 久米攻 島倉二千六」
  14. ^ a b 東宝チャンピオンまつりパーフェクション 2014, p. 84, 「ゴジラ対ヘドラメイキング」
  15. ^ 平成25年度 東京都現代美術館年報 研究紀要 第16号” (pdf). 東京都現代美術館. p. 21. 2022年8月20日閲覧。
  16. ^ a b 日本特撮映画図鑑 1999, p. 96, 「特撮映画 裏のウラ[3]」
  17. ^ 日本特撮映画図鑑 1999, p. 144, 「東宝特撮作品 ビデオLDラインナップ 戦争映画」

出典(リンク)[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]