神田カルチェ・ラタン闘争

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神田カルチェ・ラタン闘争に入る前には、中央大学中庭で集会が催された
中大中庭から駿河台の明大通りに進出したブントの学生たち

神田カルチェ・ラタン闘争(かんだカルチェ・ラタンとうそう)は、1968年6月21日社会主義学生同盟(社学同。共産主義者同盟の学生組織)が東京神田駿河台の学生街で起こした解放区闘争。駿河台の明大通り2か所にバリケードを築いたが機動隊に突破された。

用語[編集]

カルチェ・ラタンフランスパリ市の地区名。パリ大学グランゼコールなどの諸学校が集中しており、1968年にフランス学生のデモである五月革命の舞台となった。

概要[編集]

1968年8月にオーストラリアで、アジア太平洋協議会会合(アスパック)の開催が計画されており、日本からも外務大臣が出席の予定であった。社学同は、この会議が日本帝国主義アジア再侵略への一歩であり、70年安保の実質化であると位置づけていた。

そこで1968年6月21日、アスパック開催抗議の実力闘争を組もうとして、この「神田カルチェ・ラタン闘争」を呼びかけた。各地から集まった社学同700名は、同日昼過ぎから駿河台の中央大学中庭で集会を開いた後、「神田を日本のカルチエ・ラタンにせよ」というスローガンで闘争を展開し、明大通り明治大学記念館前(現在のリバティタワー前)と同大学院前(現在のアカデミーコモン前)の2か所に、中央大学や明治大学から持ち出した机などを使ってバリケードを築いた。

しかし機動隊がバリケード撤去に来ると、赤ヘルメットの学生たちは群衆を隠れ蓑にして投石し、さらに明大校舎内に逃げ込む戦術をとったため、機動隊は排除に手こずった[1]。結局、午後8時半ごろからが降り始めたため、社学同は明大大学院前で約3000人の学生を集めて集会を行ってから解散した[2]

この騒動のため国電御茶ノ水駅で1時間近くストップし、中央総武両線で計40本が運休、76本が最高40分遅れ、約20万人の足に影響が出た[1]

背景[編集]

1968年には、世界的にベトナム反戦運動が盛り上がった。「沈黙することは戦争に手を貸すこと」という雰囲気さえ醸成されていた。ソルボンヌ大学パリ大学の文学・語学部門)では、学制改革を要求する学生の激しい闘争で、カルチェ・ラタンやサンミッシェルで解放区を実現しただけではなく、労働者ストライキと工場占拠に波及し、フランス5月革命と呼ばれる状況を引き出していた。イタリアの諸大学でも、ベトナム反戦運動から波及した学生による大学占拠が起きたり、ベトナム反戦運動はヨーロッパ各国に広がっていた[3]

社学同は、中央大学(移転前であり、理工学部以外は駿河台にあった)と明治大学に多くの同盟員・シンパ(sympathizer)がいたことから、パリの学生運動の拠点であったカルチェ・ラタンになぞらえて、駿河台で解放区闘争を組もうとしたものであった。

運動の中心になった大学[編集]

参加を拒否したとされる大学[編集]

影響[編集]

1968年から1969年にかけて、全国の大学に学生運動が広がり、全共闘が結成される大学も多かった。街頭デモでは、そうした学生と機動隊が激しく衝突することが多かった。こうした衝突で神田地区におけるものを、広く比喩的に「神田カルチェ・ラタン」と呼ばれた事もあり、当時の学生運動参加者の使用例には以下がある。「(1969年1月18日)中大、明大などの学友とともに神田・お茶の水カルチェラタン解放区闘争を闘い、順天堂病院から、東大構内への進攻をはかる」[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『朝日新聞』 1968年6月22日朝刊15面
  2. ^ 教育大学新聞』1968年6月25日号
  3. ^ 『教育大学新聞』1968年5月25日号
  4. ^ 『回想の全共闘運動-今語る学生叛乱の時代』彩流社、2011年10月、241ページ

関連項目[編集]