ノート:司教

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一般的話題[編集]

大主教で立てて大司教をリダイレクトしました。  統一しなくても、よい?Aphaea

西方[編集]

ローマ・カトリック[編集]

司教が、携帯する司教杖などを持っていない司教はいるのでしょうか? ご存知でしたらお教えください。Yorozuya 04:32 2003年12月23日 (UTC)

現在の記述では「ローマの首位権」を認めているのがローマ教会だけのようです。 東方はローマの教導権を認めていないのであって、全教会の首座教会であることは否定していません(分裂が解消していないので暫定的にコンスタンティノポリが世界総主教をつとめているだけ)。記述を少し変更する必要があるかと存じますがどうでしょうか。Aphaea

東方[編集]

誰か

  • 着せかえ
  • デスポラ

についてかいてくだされ。。Aphaea 03:42 2004年2月20日 (UTC)

補佐司教との統合提案[編集]

補佐司教は内容がきわめて乏しく、司教への統合が適切だと思います。--U3002 2008年3月2日 (日) 14:56 (UTC)[返信]

遅くなりまして恐縮ですが、微妙な問題と思います。補佐司教の項目には他に6言語の記事が存在しており、分けておく事の合理性はそれなりにあるのではないかと考えます。内容は乏しい観はあるものの、リダイレクト処理にしてしまうには躊躇われなくもありません。この統合にはあまり賛成出来ません…--Kliment A.K. 2008年3月29日 (土) 23:01 (UTC)[返信]

「主教」関連冒頭文説明の取り消しにつき説明[編集]

この取り消し編集につき、説明申し上げます。

東方典礼カトリック教会のEpiscopusを主教と呼ぶのが適当」と、カトリック教会自身が言うのなら記述の意味はありますが、「適当」とするのが当該文章を作成されたIoanPavelさんだけというのであれば、Wikipedia:独自研究は載せないに抵触します。日本語版ウィキペディアでは各所で「教派ごとの自称を尊重する」ことで記事が作成されてきました。カトリックの記事はカトリック用語で、正教の記事は正教の用語で、という具合にです。その旨、御承知おき下さい。

カトリック中央協議会のウェブサイトでは東方典礼カトリック教会のEpiscopusも凡て「司教」で記述されています[1](そもそも「東方奉神礼」ではなく「東方典礼」と呼ぶ事そのものが、カトリック用語なのです)。

従いまして

  • ラテン典礼以外のカトリック教会(東方カトリック諸教会など)でのこの役職の日本語名称で定着した訳はない → カトリック中央協議会のウェブサイトでの事実に反するため削除しました。
  • 典礼様式や伝統の違いから、同じカトリック教会に属する教会においても、正教会に準じた呼称(主教、大主教、府主教、総主教)が適当である。Wikipedia:独自研究は載せないに抵触するため、削除しました。

余談ですが、もしこの言い分(ラテン典礼はカトリック用語、東方は正教用語)がそのまま通ってしまいますと、西方奉神礼正教は「西方典礼正教」に、その神品達は「司教」「司祭」「助祭」と訳さなければならなくなってしまいます。--Kinno Angel会話2012年5月3日 (木) 04:08 (UTC)[返信]


「主教」関連冒頭文説明の取り消しにつき説明 ──に対する見解[編集]

「説明」ありがとうございます。 まず、問題の対象となっている、“ラテン典礼以外のカトリック教会(東方カトリック諸教会など)”が、日本において自らの役職について定まった日本語名称(あるいは日本語訳)を提示していない、またそれ以前にそうした教会が(あったとしても)広く認知されていない、という現状から用語の問題が生じる、という認識で間違いないでしょう。

それに対して、Kinno Angelさんの「日本語版ウィキペディアでは各所で「教派ごとの自称を尊重する」ことで記事が作成されてきました。」という原則?があるのなら、私としては残念ですが、認めねばならないと思います。 ですので、「教派ごとの自称を尊重する」という原則に従わねばならないという根拠を御教示ください。 きちんと(他の項目も)読んでいないからこういう大切な点に気づかなかったのかもしれません。

しかし、「教派ごと」と、Kinno Angelさんがお示しくださったのが、実はそれぞれの「教派的伝統」あるいは「教派およびその伝統」という意味だとしたら、もう少し議論させていただきます。“ラテン典礼以外のカトリック教会(東方カトリック諸教会など)”をそれ自体として「公平に扱う」というのなら、組織としての「教派ごと」という枠組みだけで乱暴に(表現が悪いのかもしれませんが)、日本の“ラテン典礼のカトリック教会”の用語を当てはめることが、はたして「公平」でしょうか?

以下、この観点から「説明」に対して個別にコメントさせていただきます。

・「カトリック中央協議会のウェブサイトでは東方典礼カトリック教会のEpiscopusも凡て「司教」で記述されています」 ・「ラテン典礼以外のカトリック教会(東方カトリック諸教会など)でのこの役職の日本語名称で定着した訳はない → カトリック中央協議会のウェブサイトでの事実に反するため削除しました。」 →カトリック中央協議会は、現在のところ、日本のカトリック教会=“ラテン典礼のカトリック教会”という大前提ですから、「司教」とするのは当然だと思います。前述のように、日本に(ほとんど)実態がない教会の役職名をどう訳すか、という問題に差し掛かった時に、“ラテン典礼のカトリック教会”がそれまで使用しなかった「主教」という名称を用いることは考えにくいことです。  しかし、“ラテン典礼以外のカトリック教会”の信徒の方の視点からすれば、それは典礼様式(とりあえずカトリックでよく使用する表現を用います。ラテン語ritus)を無視した暴挙と映らないでしょうか?  いや、少し具体例をあげましょうか。東方典礼カトリック教会のEpiscopusが身に付けているオモフォリオン(日本版Wikipaediaでは圧倒的にスラヴ系の説明が中心になっているのでオモフォル、でしょうか)を、「教派ごとの自称を尊重する」という理由で、「パリウム」と称するのでしょうか?それとも「オモフォルに似せたパリウム」でしょうか?

・「そもそも「東方奉神礼」ではなく「東方典礼」と呼ぶ事そのものが、カトリック用語なのです」 →上述のことから、東方奉神礼という呼び方が、それに属する当事者の視点で正しければ、それもアリだと思います。「東方典礼」という表現そのものが“ラテン典礼のカトリック教会”の視点から出た用語だと思います。ただしプロテスタントでもこうした表現が(全面的かどうか別にして)受容されていると思いますので、かならずしも「教派」の用語、というわけではないと思います。

・「典礼様式や伝統の違いから、同じカトリック教会に属する教会においても、正教会に準じた呼称(主教、大主教、府主教、総主教)が適当である。Wikipedia:独自研究は載せないに抵触するため、削除しました。」 →独自研究に基づいて記述したつもりはありません。あくまで中立的立場に立って記述したつもりです。 正教という立場(Kinno Angelさんがその立場かどうか判りませんが)からすれば、(ほとんど)同じ典礼様式(ビザンティン典礼)のカトリック教会に対して、その組織も伝統も認めがたい、認められない、という見解が主流だろうと推察いたします。「正教を装ったカトリック」として改宗主義を疑うからでしょう。 その立場からみれば、たとえば、

・ラテン典礼総大司教とウクライナ・カトリックの「キウィウ総大司教」:カトリックなら、一律、Patriarch=「総大司教」 これならばよい(勝手にそう呼んでおけばよい)となるかもしれませんが、 ・ラテン典礼総大司教とウクライナ・カトリックの「キウィウ総主教」 これは許せないところかもしれません。しかし一般読者の視点なら両者の典礼様式(ritus)の違いが判りやすいだろうと思います。

Wikipaediaという場を考えたら、その記事を読む一般読者に対して、公平な(中立的な)立場で記述することは当然ですが、それは今回のような場合には、比較的理解しやすい用語を選択しながら「公平な(中立的な)立場で」記述することではないでしょうか。日本においての用語や訳し方が問題になるなら、どのような用語が、読者に理解されやすいかを中立的に考えねばならないはずです。ビザンティン典礼カトリックの伝統を背景にもつ項目や内容を、一般読者に理解してもらえるような中立的な表現として、比較的一般読者が理解しやすい正教会の用語を用いることを適当と考えるのは間違っているでしょうか。

もちろん、他の項目(大主教、府主教、総主教、その他)にも波及する問題だと思います。 新参が申し上げるのは不適切かもしれませんが、現在のWikipaedia日本語版のこれらの項目に関していえば、中立性という点で問題があるかもしない、と思います。

念のため申し上げておきます。 私は自分の信条や立場を具体的にあきらかにするのを好みませんが、“ラテン典礼以外のカトリック教会”に属する者ではない、ということだけは明らかにしておきます。

長いコメントになり申し訳ありません。Wikiの編集そのものが慣れておりませんし、私の勘違い等多々あるかもしれません。御指導よろしくお願い申し上げます。 --利用者:IoanPavel2012年5月3日 (木) 19:56‎(UTC、時刻はKinno Angel会話)が補充--Kinno Angel会話2012年5月4日 (金) 04:41 (UTC))[返信]

お返事ありがとうございます。なお、署名の際には「--~~~~」のように、チルダを4つにしてください。3つですと署名に時刻が表示されません。
「教派ごとの自称を尊重する」という原則に従わねばならないという根拠を御教示ください。きちんと(他の項目も)読んでいないからこういう大切な点に気づかなかったのかもしれません。
「教派毎の用語尊重の原則」で解決された(あるいはその原則的価値観を前提として進行した・している議論)例は膨大にあります。
ノート:教皇プロジェクト‐ノート:キリスト教/キリスト教の人物系諸カテゴリ改名・カテゴリ基準の変更提案プロジェクト‐ノート:キリスト教/過去ログ2#超教派の統一用語集はありませんか?ノート:聖パトリックの祝日ノート:ジョン・グレッサム・メイチェンノート:至聖三者大門教会ノート:特別恩寵ノート:バルバラ (聖人)ノート:公現祭ノート:病者の塗油ノート:キュリロス (スラヴの(亜)使徒)ノート:フェロンノート:聖イサアク大聖堂ノート:生神女庇護聖堂 (ハルビン)ノート:至聖三者大門教会ノート:贖いの賜物Category‐ノート:キリスト教の礼拝・典礼・奉神礼ノート:救世主顕栄教会 (ヴェルィーキ・ソローチンツィ)Category‐ノート:キリスト教の祈りノート:教派別のキリスト教用語一覧ノート:公同信条ノート:コンスタンディヌーポリ総主教庁ノート:聖水ノート:ペトロー・モヒーラノート:ソウル聖ニコラス大聖堂ノート:聖ワシリイ大聖堂ノート:殉教ノート:教会会規ノート:ロシア正教会ノート:クリスマスノート:聖公会祈祷書ノート:アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカノート:告解ノート:恩寵 (キリスト教)ノート:聖母マリアノート:神成 (正教会)
以上、挙げたらキリがありません。
“ラテン典礼以外のカトリック教会(東方カトリック諸教会など)”をそれ自体として「公平に扱う」というのなら、
私は「公平」という言葉は一切使っていないのですが…。ひとえに「教派ごとの用語尊重の原則」しか述べておりません。ウィキペディアにおいて問題になるのは「中立的観点」「独自研究の排除」「検証可能性」であって、「公平」とは枠組みが違います。
正教という立場(Kinno Angelさんがその立場かどうか判りませんが)からすれば、(ほとんど)同じ典礼様式(ビザンティン典礼)のカトリック教会に対して、その組織も伝統も認めがたい、認められない、という見解が主流だろうと推察いたします。「正教を装ったカトリック」として改宗主義を疑うからでしょう。(引用中略)これは許せないところかもしれません。
そんな理由は一切合切ありません。ちょっとこれは中傷か、良くとっても「勘ぐり過ぎ」です。撤回を求めます。「正教以外に正教と同じ用語を使うな」などという主張は一切ありません。私は聖公会の「主教」表記を一切問題にしていません。ジョン・マキムを立項したのは私です。
一般読者の視点なら両者の典礼様式(ritus)の違いが判りやすいだろうと思います。
「司教」であれば、少なくともローマ教皇の首位権・不可謬を認めている者と同じ用語に統一されるメリットがあります。
  • 「主教」表記は「両者の典礼様式の違いが判りやすい」
  • 「司教」表記は「カトリック教会としてのコミュニオンが判りやすい」
つまりメリットとして等価です。等価な前者のメリットを、カトリック中央協議会のサイトの表記を無視してまで追求する根拠がありません。
ビザンティン典礼カトリックの伝統を背景にもつ項目や内容を、一般読者に理解してもらえるような中立的な表現として、比較的一般読者が理解しやすい正教会の用語を用いることを適当と考えるのは間違っているでしょうか。
所属という面でも出典との整合性という面からも、正教会の用語をカトリック中央協議会の用語に優先させる理由は見当たりません。
「教派ごとの自称を尊重する」という理由で、「パリウム」と称するのでしょうか?それとも「オモフォルに似せたパリウム」でしょうか?
全く別のレベルのお話です。パリウムとオモフォルは別物です(起源は同じですが)。その場合「オモフォル」で構いません。
最後に大事なお話をします。
しかし、“ラテン典礼以外のカトリック教会”の信徒の方の視点からすれば、それは典礼様式(とりあえずカトリックでよく使用する表現を用います。ラテン語ritus)を無視した暴挙と映らないでしょうか?
むしろ逆です(大事なことなので繰り返し強調します、むしろ逆です)。
東方典礼カトリックに親和的(おそらくはウクライナ東方カトリック教会の信徒かシンパと思われる)ウクライナ人編集者Alex Kさんは、聖ユーラ大聖堂において「大司教」の表記で記事を作成しています。また、ノート:至聖三者大門教会でもお分かりの通り、「正教会用語は日本正教会の独自用語でしかない。より一般に普及している用語を使うべきだ。」と、「日本正教会用語は考慮に値せず」というのが彼の一貫した主張です。
どうも(それこそこれが私の勘ぐりだったらお詫びしますが)利用者:IoanPavelさんは、私に東方典礼カトリックに対する配慮を欠けているとお考えのようですが、そんなことはありません。むしろAlex Kさんの言動を見れば、私は東方典礼カトリックの当事者の心情に大いに配慮しているつもりです。もし「正教会用語を東方典礼に使うべきだ」と彼が考えていたら、即座に私が作成したキリスト復活総大司教座大聖堂に改名提案が出されたはずです。
以上、ご理解頂けましたでしょうか。特に最後の指摘が重要であります。本当に大事な事なので三度繰り返します、「正教用語で東方典礼カトリック教会の事物を表記してほしい」というカトリック教会の当事者は居ません。--Kinno Angel会話) 2012年5月4日 (金) 04:41 (UTC)微修正--Kinno Angel会話2012年5月4日 (金) 04:48 (UTC)[返信]


お返事、そして詳しい説明をありがとうございます。また、私のWikiーの編集(署名)の不備の御指摘を感謝いたします。まだ編集作業に不慣れで見にくいところがあるかもしれませんが、御容赦ください。

正教という立場(Kinno Angelさんがその立場かどうか判りませんが)からすれば、(ほとんど)同じ典礼様式(ビザンティン典礼)のカトリック教会に対して、その組織も伝統も認めがたい、認められない、という見解が主流だろうと推察いたします。「正教を装ったカトリック」として改宗主義を疑うからでしょう。(引用中略)これは許せないところかもしれません。そんな理由は一切合切ありません。ちょっとこれは中傷か、良くとっても「勘ぐり過ぎ」です。撤回を求めます。「正教以外に正教と同じ用語を使うな」などという主張は一切ありません。私は聖公会の「主教」表記を一切問題にしていません。ジョン・マキムを立項したのは私です。 →(Kinno Angelさんがその立場かどうか判りませんが)という部分は、勘ぐりでもなくまして中傷でもなく文字通り「判らない」、つまり「正教という立場…」という私の考えにKinno Angelさんが当てはまるとの断定はしてほしくないのだが、という意味で書きました。しかし >中傷か、良くとっても「勘ぐり過ぎ」です。

→と、とられるのは本意ではありませんでした。申し訳ありません、撤回します。

ただしそこで言いたかったことは、それぞれの独立した(教派としてではなく。もし具体的にいえば教会法上で。)教会の伝統が、教派ごとの枠で捉えようとすることで、否定される。東方典礼カトリック教会はまさにそういう対象ではないか、ということです。 そういう対象を「中立的に」(公平に、ではなく)扱うということが、「教派毎の用語尊重の原則」というKinno Angelさんがおっしゃっていたものによる、ということも理解しました。ただし、東方典礼カトリック教会を一般読者対象に説明する際に、使用する用語について問題が生じる、という点について理解を求めたかった次第です。Kinno Angelさんの「司教」「主教」の用語の等価な両者のメリットに対して、カトリック中央協議会の表記を引き合いにして結局は「教派」の枠でご判断されていますが、

「正教以外に正教と同じ用語を使うな」などという主張は一切ありません。私は聖公会の「主教」表記を一切問題にしていません。ジョン・マキムを立項したのは私です。

→とおっしゃっているとき、たしかに「教派毎の用語尊重」はしていますが、実は同時に、Kinno Angelさんが(日本)聖公会の伝統も尊重していることにもなるから、「中立的」だといえるのではないでしょうか。

>東方典礼カトリックに親和的(おそらくはウクライナ東方カトリック教会の信徒かシンパと思われる)ウクライナ人編集者Alex Kさん

→を引き合いに出されていますが、一般読者が「司教」という語によってラテン典礼のbishopを考えることが自然であろう日本語の環境で、これは「中立的」かつ「教派ごとの用語尊重」にはなっていても、読者が一般的に求めているより正しい記述になっているか疑問に思います。Alex Kさんが事実、東方典礼カトリックに親和的立場の方ならば、私はむしろこのかたとも議論すべきだったのかもしれません(もちろん、Kinno Angelさんがこのように丁寧に対応してくださったので私としては感謝していますし、この問題について判断できる方-2、3の議論をみさせていただいただけですが-と、お見受けいたします)。

>「教派毎の用語尊重の原則」で解決された(あるいはその原則的価値観を前提として進行した・している議論)例は膨大にあります。

→というのは現状としては判ります。しかし東方典礼カトリックのようなややこしい(これも撤回すべき表現かもしれませんが)対象を、日本語版において、日本語でよりただしい記述をするためには、はたして「教派毎の用語尊重の原則」でよいのか、「教派毎」という枠組みで「中立的」であるということが、はたしてより正しい説明、記述になるか、という点です。Kinno Angelさんからいただいた説明で、現状がこうなっている、ということはわかりましたが、この点で未だ理解に至っておりません。

>また、ノート:至聖三者大門教会でもお分かりの通り、「正教会用語は日本正教会の独自用語でしかない。より一般に普及している用語を使うべきだ。」と、「日本正教会用語は考慮に値せず」というのが彼の一貫した主張です。

Alex Kさんの主張をオリジナルでまだ確認しておりませんが、彼(または彼女?)の主張こそ中立的ではないと思います。ただし別のところ(ノート)で、「ハリストス復活!」等、正教会の用語を多様されていらっしゃるようですからむしろ正教会に親和的な方と思いました。いずれにせよ上記の主張は、(Alex Kさん本人がおっしゃっているか未確認ですが)極端である以上、例としてここで出すのは適当ではないように思います。 日本における正教会用語は、普及の度合いが相対的に低いとしても、独立した(sui juris)一個の伝統を有した教会の用語です。あまりに現代の日本では受入れがたい用語が一部あるとしても(もちろん正教会自身が改善してくれればそれに越したことはないと思いますが)。

>もし「正教会用語を東方典礼に使うべきだ」と彼が考えていたら、即座に私が作成したキリスト復活総大司教座大聖堂に改名提案が出されたはずです。

→事実として日本においては東方典礼の独立した教会は、正教会以外には無い(と思います)。したがって現状で日本語版での説明は、正教会の用語を使用するのがふさわしいと考えるのは自然ではないでしょうか(個人の好みは別として)。ラテン典礼カトリックの立場からすれば、自分と同じ教派に関してのものであっても伝統が異なる「他の教会」です。また、私はしかるべき時にしかるべき方が改名提案をされるべきと考えております。もちろん今すぐにでも私が改名提案を出したいと思いますが、Kinno Angelさんをはじめ多くの方が、(東方典礼カトリックについて正しく記述できないと私が考える)「教派毎の用語尊重の原則」によってWiki-のキリスト教関係項目ができあがってしまっている以上、まずは「司教」という項目で今回のように議論をすすめることくらいしか今の私にはできません。 なお、失礼にあたることかどうかよく判りませんがKinno AngelさんやAlex Kさんや他の方の議論を一部読ませていただいたのですが、怖くなりました。私に関していえば、精神的に疲弊してまでWiki-の編集などというものに足を突っ込もうとは思いませんし、もとより誰かを中傷しようという意図はありませんので、撤収したほうがよいのかもしれません。Wiki-をよりよいものにするために、互いの意見を出し合う場だとよいのですが。

IoanPavel会話2012年5月5日 (土) 03:41 (UTC)IoanPavel[返信]

申し訳ありません、撤回します。
撤回に感謝します。
一般読者が「司教」という語によってラテン典礼のbishopを考えることが自然であろう日本語の環境で、
IoanPavelさんの御主張は全てこれが大前提になっているわけですが、この「一般読者は『司教』と言えばラテン典礼のbishopを考える」の根拠をお示し下さい。少なくとも「一般読者」は「司教」と「主教」の用語の使い分けすら判らないのが普通だ、というのが実情だと私は思っていますので(これには根拠となる実例があります。ニコライ堂の特集がNHKのブラタモリで行われた際も、初回放送では「主教様」ではなく「司教様」と放送されていた位です。世間はそんな状態です)。そもそも「ラテン典礼」という概念を知っている読者であれば、一定程度の知識は期待出来るというものです。
少なくとも私はカトリック中央協議会がカトリック用語を聖座の下にある教会に平等に適用している現状になんら奇異さを感じませんし、Wikipedia:独自研究は載せないがある以上、当事者が使用する言語を不適当である云々述べる事は不可能です。
ラテン典礼カトリックの立場からすれば、自分と同じ教派に関してのものであっても伝統が異なる「他の教会」です。
すみません、「他の教会」である出典をお示し頂けませんでしょうか。むしろ東方典礼カトリック教会からすれば「カトリック扱いされていない」という事で不愉快に思われる記述だと思うのですが。--Kinno Angel会話2012年5月5日 (土) 03:56 (UTC)[返信]
そもそもラテン典礼の聖公会も「主教」表記である時点で、「東方典礼=主教」にする「解りやすさ」のメリットは極小です。--Kinno Angel会話2012年5月5日 (土) 04:08 (UTC)[返信]


主教-司教の記事を統合すべし[編集]

カトリックの司教だけ分離しているのはばかばかしい。 特にinterlink(外国語版とのリンク)を分析してみるとばかばかしさが際立つ。フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語など、明らかにカトリック教会圏のページ(司教に関する情報充実しているページ)をどうして正教会の主教とリンクされてしまうような変な状態のまま放置する???? 明らかにおかしい。フランス語版を見てみるがいい。80%はカトリックの司教のことが書いてある。つまりフランス語版のfr:Évêque、イタリア語のit:Vescovo、スペイン語のes:Obispo、ポルトガル語のpt:Bispoなどとカトリックの司教のページとリンクされていないと。--Quasimada会話2013年3月14日 (木) 11:21 (UTC)[返信]

反対
ノート:主教にも反対理由を書きましたが、こちらにはあちらに書いて居ない事についてのみ書きます。
フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語など、明らかにカトリック教会圏のページ(司教に関する情報充実しているページ)をどうして正教会の主教とリンクされてしまうような変な状態のまま放置する?
申し訳ありませんが、日本語版記事をきちんと読んでおいでなのでしょうか。「主教」表記は正教会の専売特許ではなく、聖公会でも同様です。アングリカン・コミュニオンは当然英語をベースにしているわけでして、英語版記事に「主教」がリンクしている状況はそれほど奇異ではありません。また、東欧系言語は当然正教会の主教について多く割いているわけです。
いずれにせよ、「司教、主教、監督」のどれかを採用する時点で、NPOV達成は困難です。記事がそれぞれの教派別に作られてきたのは、それが最も合理的だからだということを御理解下さい。--Kinno Angel会話2013年3月14日 (木) 12:28 (UTC)[返信]

自分の教派の宣伝のために強弁・詭弁はしないほうがいいです。 他の教派の人々が、メイン記事を「主教」でよい、と譲っていることで(日本では極端に少数派の教派である正教会に対して、実は、黙って)寛容の精神にもとづいた行動をとっている、ということに気づいていただければ幸いです。本当はギリシア語の「エピスコポス」で記事を立てれば中立的だと思いますが。英語版とかフランス語版とか、訳語では分断されていません。フランス語はÉvêqueで一本立てです。日本語版のウィキペディアはキリスト教をテーマにした記事に限らず、訳語でいちいち別にすると際限なく断片化がおき、見通しが悪くなります。ある程度、同居する形にすべきなのです。(混ぜ混ぜにミックスすることは望んでいません。歴史的に一緒の部分は一緒として書いて、別になったあとは、しっかり別のものとして書けばいいだけです。)

大切なのは、自分の教派以外の情報を排除しようというような偏狭な精神を捨てること。ウィキペディアは皆が見ています。どうか、クリスチャンとして恥ずかしくない態度を。大切なのは寛容の精神だと思いますよ。--Quasimada会話2013年3月14日 (木) 17:01 (UTC)[返信]

申し訳ありませんが個人攻撃に付き合っている暇はありません。また日本語でもっと一般的ではない片仮名表記にすることは独自研究に該当します。もし私が「正教会の宣伝をしている、これは問題だ」とお思いならば、コメント依頼でもブロック依頼でも無さって見て下さい。コミュニティが審判するでしょう。お疲れ様です。--Kinno Angel会話2013年3月15日 (金) 14:52 (UTC)[返信]

Wikipedia:コメント依頼/Quasimadaを提出しておりますことを御報告申し上げます。--Kinno Angel会話2013年3月18日 (月) 02:08 (UTC)[返信]