土師富杼

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土師 富杼(はじ の ほど)は、飛鳥時代豪族

出自[編集]

土師連(宿禰)氏は、『新撰姓氏録』「右京神別」・「大和国神別」天孫に、「天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也」とあり、前者は光仁天皇天応元年(781年)に菅原朝臣に改姓している。このことは『続日本紀』巻第三十六にも見えている[1]。また、「山城国神別」に「天穂日命十四世孫野見宿禰之後也」ともある。

経歴[編集]

土師富杼は、『日本書紀』巻第三十の以下の記述(持統天皇4年、690年)にのみ、登場する。

天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと天智天皇)の三年に洎(およ)びて、土師連富杼・氷連老筑紫君薩夜麻弓削連元実児、四人(よたり)、唐人(もろこしびと)の計る所を奏聞(きのえまう)さむと思欲(おも)へども、衣(きもの)(かて)無きに縁(よ)りて、達(とづ)くこと能はざることを憂ふ。 (天智天皇の3年になって、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝の子の四人が、唐人の計画を朝(みかど)に奏上しようと思ったが、衣食も無いために京師まで行けないことを憂えた)[2]

そこで、大伴部博麻が、富杼らに語っていうには、

「願(こ)ふ、我が身を売りて、衣(きもの)(をしもの)に充てよ」[2]

ここで、「天智天皇の3年」と言っているが、これは天皇が即位して3年目という意味で、『書紀』の記述する天智(称制)9年(670年)のことと想像される。

この後、

富杼(ほど)(ら)、博麻が計(はかりごと)の依(まま)に、天朝(みかど)に通(とづ)くこと得たり[2]

とあるため、日本に無事帰国して、朝廷に唐人のはかりごとを報告することができたようである。もっとも、これに該当する記事は『書紀』には存在せず、敢えてあげれば、巻第二十七の、天智天皇10年(671年)に「筑紫薩野馬」が唐船47艘に乗って沙門道久(ほうし どうく)・韓嶋勝裟婆(からしま の すぐり さば)・布師首磐(ぬのし の おびと いわ)とともに帰国し、唐船来航の趣旨を告げに対馬に現れたとする記述が当てはまるようである[3]。あるいは史書に記述されていない、富杼らの帰国事実が存在する可能性もある。

なお、文中にあげた史料はすべて持統天皇が大伴部博麻に詔として語った言葉であるため、そのことを合わせて判断する必要がある。この記事の直前には、天皇は筑紫の大宰であった河内王らに詔して、博麻を送ってきた新羅の金高訓らの饗応を、天武天皇13年12月6日に土師宿禰甥らをおくってきた使いの例になぞらえるように、という指示を出している[4]

土師連氏は、天武天皇13年(684年)の八色の姓の制定により、同年12月、宿禰を与えられている[5]

脚注[編集]

  1. ^ 『続日本紀』光仁天皇 天応元年6月25日条
  2. ^ a b c 『日本書紀』持統天皇4年10月22日条
  3. ^ 『日本書紀』天智天皇10年11月10日条
  4. ^ 『日本書紀』持統天皇4年10月15日条
  5. ^ 『日本書紀』天武天皇13年12月2日条

参考文献[編集]

関連項目[編集]