土師甥

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土師 甥
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
官位 勤広参
主君 天武天皇持統天皇文武天皇
氏族 土師宿禰
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土師 甥 (はじ の おい)は、飛鳥時代官人冠位は勤広参。

経歴[編集]

に留学していたが、天武天皇13年(684年)同じ留学生の白猪宝然とともに新羅経由で筑紫に帰国。この際に新羅は送使・大奈末(だいなま)および金物儒(こんもつぬ)を遣わせて、かつて白村江の戦いで唐に捕らえられていた捕虜2名(猪使子首・筑紫三宅得許)も送還している[1]

この出来事は大和政権にとって大事件であったとみられ[要出典]、のちの持統天皇4年(690年)新羅の送使・大奈末と金高訓(こむかうくん)が日本から唐に留学していた学問僧を送還した際、新羅送使に対する饗応を、甥らと来日した新羅送使に対するものに準じて実施している[2]

文武天皇4年(700年)の大宝律令撰定の功により刑部親王以下19人が禄を与えられたが、この際に土師甥も報奨に与っている(この時の冠位は勤広参)[3]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』天武天皇13年12月6日条
  2. ^ 『日本書紀』持統天皇4年10月10日条
  3. ^ 『続日本紀』文武天皇4年6月17日条

参考文献[編集]