源義康

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源 義康/足利 義康
時代 平安時代後期
生誕 大治2年(1127年
死没 保元2年5月29日1157年7月7日
改名 義保、義泰、義康、道達(どうたつ)
別名 足利義康、足利陸奥判官、足利蔵人判官
墓所 栃木県足利市家富町の鑁阿寺
官位 足利荘下司職、北面武士左衛門尉検非違使従五位下蔵人陸奥守
主君 鳥羽上皇
氏族 河内源氏義国流足利氏
父母 父:源義国、母:源有房
兄弟 義重義康季邦
正室:藤原季範養女藤原範忠娘)
義清義長義兼義房[1]
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源 義康(みなもと の よしやす/足利 義康 あしかが よしやす)は、平安時代末期の武将足利氏の祖[2]。兄源義重と共に武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の孫。足利氏本宗家(下野源氏)の初代であり、下野国足利荘を本拠としたため足利義康と称する。陸奥判官とも称した。室町幕府初代将軍足利尊氏は子孫に当たる。

生涯[編集]

平安後期に前九年の役後三年の役で活躍した源義家の三男・義国の次男として誕生。[3]

父義国から下野国足利荘を相続し、足利を名字とした。父の本領である八幡荘を相続した異母兄の義重は、父と共に上野国新田荘を開墾し新田氏の祖となる。義康は熱田大宮司藤原季範の養女(実孫)を娶り、河内源氏の同族源義朝と相聟の関係になり同盟を結んでいる。

康治元年(1142年)10月、鳥羽上皇が建立した安楽寿院に足利荘を寄進、義康は下司となった。久安の頃に上洛し、所領の寄進が機縁となって鳥羽上皇に北面武士として仕え、蔵人検非違使に任官した。また陸奥守にも任ぜられ、「陸奥判官」とも呼ばれた。

保元元年(1156年)、死期が迫った鳥羽法皇が特に信頼できるとして後事を託した五人の武士の中に義康の名もあった。法皇崩御後に起こった保元の乱では、源義朝と共に後白河天皇側に付き、平清盛の300騎、義朝の200騎に次ぐ100騎を従え、天皇方主力として最北方の近衛方面の守備を担当した。乱後、敵方の降将・平家弘父子を処刑。論功行賞により昇殿を許され、従五位下大夫尉に任官した。

将来を嘱望されたが、翌年病を得て31歳で没したという。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 保暦間記』と『本朝世紀』では、源季邦の年齢と活躍期の年代を考慮すると、足利義康の子で義兼の同母弟の義房と同人物とする。
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 35頁。
  3. ^ または三男とも。