柴山和彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柴山 和彦
生誕 (1952-08-27) 1952年8月27日(71歳)
出身地 日本の旗 日本神奈川県横須賀市
職業 ギタリスト
担当楽器 ギター
共同作業者 沢田研二
エキゾティクス
JAZZ MASTER
鉄人バンド

柴山 和彦(しばやま かずひこ、1952年8月27日 - )は日本のギタリスト

来歴[編集]

1952年8月27日、神奈川県横須賀市にて出生。

ザ・ベンチャーズの影響を受け、ギターを始める[1]。最初のうちは兄が使っていたクラシック・ギターを触っていた[1]。中学時代から同級生とバンドを組み、どぶ板通りにあるバーで演奏していた[1]横須賀基地周辺で音楽活動をしていたため、日本人相手に演奏することは少なく、アメリカ人相手の演奏が多かった[1]

その後自身のバンド、ジュリエットを結成[2]。アルバム「Yokosuka Bay」を発売する。

この頃から東京でロック・フェスティバルに出演することが増え、ワンステップフェスティバルにも出演した[1]。その他の活動では、ガロバックバンドを務める[1]

1978年泉谷しげるのアルバム「’80のバラッド」をきっかけに泉谷のバックバンドである、BANANAに参加する[1]。ベースは吉田建だった。

1980年沢田研二のバックバンド、オールウェイズに参加する。この年から柴山は40年以上、沢田のバックギターを務めることとなる。

1981年、オールウェイズはメンバー変更を経てエキゾティクスとなり、1984年9月の解散まで活動する。エキゾティクスでは沢田がプロデュースしたオリジナル・アルバム「Library」を1983年10月に発売。柴山は「INNOCENT -STEP ON SHADOW-」「YOU CAN TELL ME HOW」「TONIGHT -BREAK MY HEART-」の3曲で作曲とボーカルを務めた。

1985年からは大沢誉志幸のバックバンドに参加した。

1988年に再び沢田のバックバンドKrís Krínglに参加、翌1989年から引き続き沢田のバックバンドJAZZ MASTERに参加した。以降一貫して沢田のバックギタリストを務めている。

1990年久宝留理子の1stアルバム「プラスチック・マン・ライフ」を、1991年には2ndアルバム「COOL」の音楽プロデューサーを務めた[3]

2008年、沢田の還暦記念で京セラドーム大阪東京ドームで開催された人間60年・ジュリー祭りに参加。6時間半で82曲を演奏した[4]

2018年から、沢田のコンサートのバック演奏を、柴山のギターのみの体制に変更。沢田と柴山の2人だけのステージ体制は2021年まで続いた。

2020年の沢田のシングル「Help! Help! Help! Help!」では沢田と共にダブルクレジットで名前が載っている。

提供曲[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 『ギター・マガジン2015年1月号』リットーミュージック、2014年12月13日。 
  2. ^ 柴山 和彦さん | 伝説のバンド「ジュリエット」のギタリストで、一夜限りの復活ライブに挑む | 横須賀”. タウンニュース (2012年4月27日). 2022年1月16日閲覧。
  3. ^ (日本語) Welcome to V-Studio VS-880 Navigator: Seiji Toda, https://www.youtube.com/watch?v=KqHOewQbi8U 2022年1月16日閲覧。 
  4. ^ ジュリーが泣いた!41年で初ドーム80曲 - スポニチ Sponichi Annex 芸能”. スポニチ Sponichi Annex. 2022年1月16日閲覧。