柳沢保恵

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柳沢保恵
やなぎさわ やすとし
生年月日 1871年2月5日
出生地 日本の旗 日本 越後国北蒲原郡黒川村
(現新潟県胎内市)
没年月日 (1936-05-25) 1936年5月25日(65歳没)
称号 従二位
第一回国勢調査記念章
正三位
勲四等旭日小綬章
正四位
配偶者 柳沢秀子
子女 養子・柳沢保承
親族 義兄弟・柳沢光邦(貴族院議員)

在任期間 1904年7月10日 - 1936年5月25日


東京市会議員
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柳沢 保恵(やなぎさわ やすとし、1871年2月5日明治3年12月16日〉 - 1936年昭和11年〉5月25日)は、日本の統計学者政治家実業家華族伯爵)。第一生命保険の初代社長。

経歴[編集]

柳沢氏傍系の越後柳沢家当主で黒川藩藩主の柳沢光昭の次男として、越後国北蒲原郡黒川村(現・新潟県胎内市)に生まれる[1]。幼名は利丸、前名は光敏。保恵の出生前に父の家督は養子で大和郡山藩藩主の息子である柳沢光邦高家旗本武田信之の六男)がすでに継いでいた。

柳沢一族のなかの優秀な男子ということで本家の養子に選ばれ、明治19年(1886年)、旧大和郡山藩主の柳沢保申の次女秀子と婚約し養子となった(光昭も郡山藩主家の出身であり、保申は保恵の従兄に当たる)[2]。明治26年(1893年)10月27日、保申の死去により家督を相続。

養父保申の息子柳沢保承を自らの養子とした。

明治27年(1894年)7月、学習院を卒業。同年10月、ヨーロッパに留学、ドイツオーストリアベルギーの大学で統計学などを学んだ。当初3年間だった留学を6年間に延長。明治33年(1900年)9月、フランスカナダなどに立ち寄り帰国した。大正2年(1913年)7月、柳沢統計研究所を設立した。

1902年(明治35年)9月15日、新たに設立された第一生命保険の初代社長に就任。役員は博文館社長で衆議院議員大橋新太郎[注 1]軍人浜口茂之助

明治37年(1904年)7月10日より貴族院議員となり[3]、予算委員長を務めた。大正7年(1918年)より東京市会議員となり、議長を務めた。また、第一生命初代社長などを歴任した。

夫人の秀子との間に一男一女あり。長女露子は外交官岡本季正に嫁いだ。

将棋棋士との関わり[編集]

柳沢保恵と子女

有望な人士の面倒を見ることを好み、物心両面で援助をした。特に将棋棋士への援助は厚く、自身も愛棋家であり「将棋の殿様」と呼ばれ、坂田三吉木村義雄十四世名人などを援助していた。

坂田は「御前様のひいきがなかったら、わしはなかった。いまのわしはすべて御前様のお陰や」(坂田は柳沢を「御前様」あるいは「三位様」と呼んでいた)を口癖にしていたという。

栄典[編集]

位階
勲章等

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 大橋は以後、王子製紙日本鋼管京城電気大橋本店の取締役、日本勧業銀行理事、大橋図書館朝鮮無煙炭東電燈理化学興業南朝鮮鉄道日本航空輸送の取締役、日本石油会社相談役・大日本麦酒取締役会長、 日本工業倶楽部会長、日本硝子取締役会長などを務めた。
出典
  1. ^ 20世紀日本人名事典
  2. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、306頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  3. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、12頁。
  4. ^ 『官報』第5842号「叙任及辞令」1902年12月22日。
  5. ^ 『官報』第1630号「叙任及辞令」1918年1月11日。
  6. ^ 『官報』第21号「叙任及辞令」1927年1月25日。
  7. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  8. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。

参考資料[編集]

外部リンク[編集]

日本の爵位
先代
柳沢保申
伯爵
郡山柳沢家第2代
1893年 - 1936年
次代
柳沢保承
ビジネス
先代
(初代)
第一生命保険社長
初代:1902年 - 1915年
次代
矢野恒太