唐牛健太郎

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唐牛健太郎(1959年)

唐牛 健太郎(かろうじ けんたろう、1937年8月10日 - 1984年3月4日[1])は、日本学生運動家。60年安保闘争当時の全学連委員長。

経歴[編集]

北海道函館市生まれ。幼少時に父を亡くし、郵便局の保険外交員をしていた母の元で育てられる。湯川国民学校、湯川中学校を経て、1956年、北海道函館東高等学校(現・市立函館高等学校)を卒業し、北海道大学教養部(文類)に入学。

1956年、北大を休学して上京し、深川の印刷工場などで働く。砂川闘争に参加。1957年、印刷工場が倒産、函館の材木屋に勤めたのち北大に復学。シナリオ研究会に入会。当時高校生だった保阪正康も会員であった。北大教養部自治会委員長に選出され、日本共産党に入党する。全学連第11回定期全国大会で中央執行委員に選出されるが、その後日本共産党が指導する安保闘争に限界を感じてブント(共産主義者同盟)結成大会に参加する。

ブント参加後[編集]

1959年5月、ブント書記長の島成郎は唐牛を説得するために札幌を訪れ、説得を受けた唐牛は全学連委員長に就任した。その場には、唐牛と北大の同期で、のちの北大文学部長・灰谷慶三もいた。

唐牛が全学連の中央執行委員長に就任して初めての大仕事は、時の防衛庁長官・伊能繁次郎が不用意に「東大にも造兵学科を設置する必要がある」と言った問題発言に反対しての防衛庁前の全学連デモの指揮、であった。22歳の唐牛はこのとき公務執行妨害で逮捕され、10日間拘留された。全学連委員長に就任して4日後のことだった。これが唐牛の最初の拘置所体験となった。

1960年1月、「1.16首相岸信介渡米阻止、羽田空港ロビー占拠闘争」で逮捕され、2月に保釈金を支払って出所した。逮捕者は唐牛を含めて約80名にもおよび、このとき全学連は組織的にほぼ壊滅状態になった。逮捕を免れた幹部は、書記長の島成郎ほか数名だけだった。唐牛の盟友・篠原浩一郎によれば、このとき保釈された唐牛と篠原は田中清玄によって赤坂の中華料理の料亭「栄林」に呼び出され、共産党にはくれぐれも気を付けろと念を押された。

1960年4月、唐牛は、60年安保闘争の前哨戦(4.26国会デモ)いわゆる「4.26国会前バリケード突破闘争」(4.26国会突入闘争)によって逮捕され、11月までの長期拘留となり、北大を除籍される。6月15日の全学連が国会前で衝突し、東大生の樺美智子が死亡した事件については拘置所にて知ることとなる。1960年6月19日に安保条約が自然承認されるとブントの運動は急速にしぼんでいった。唐牛は釈放されぬまま、7月、全学連委員長に再選される。唐牛は保釈で拘置所から出たのは、11月5日のことで、安保条約の自然承認から5か月近く経っていた。停滞するブント活動の間隙をついて出てきたのが、革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)だった。

全学連委員長の辞任[編集]

1961年1月、唐牛は革共同に加盟して周囲を驚かせた。これが問題になり、同年7月の全学連第17回定期全国大会で、唐牛は委員長の辞任を余儀なくされ、国際部長に格下げとなった。また、1961年4月には最初の結婚をし、江古田に所帯を構えた。

1962年5月、唐牛はブントと革命的共産主義者同盟の野合を企て、共産主義学生同盟の結成を画策するが中止となる(共学同事件)。この失敗の責任をとり、革共同全国委を脱退し、政治活動から身を引いた。

1962年5月、唐牛は全学連から手を引き、安保闘争の公務執行妨害などを巡る裁判で控訴中だったが、田中清玄の経営する石油販売会社(丸和産業株式会社)に嘱託の身分で入社した。

1963年2月26日、午後9時半からTBSラジオ吉永春子製作のドキュメンタリー番組「ゆがんだ青春―全学連闘士のその後」が放送され、全学連財政部長の東原吉伸が、書記長の島成郎や唐牛らが田中から400-500万円の資金援助をもらっており、今も田中の庇護にあることを暴露する音声が流れると凄まじい反響を呼んだ。(のちに東原に取材を行った佐野眞一は番組を吉永による盗み録りだとしている。[2]

唐牛は、1963年春に東京高裁で控訴棄却の判決を受け、宇都宮刑務所に収監され、同年11月に出所した。

田中清玄の許を離れてから[編集]

1965年2月、太平洋を単独横断した堀江謙一と組んでヨット会社「堀江マリン」を設立。同社は江の島に「レッツ・ゴー・セーリングクラブ」を開き、初心者向けヨットスクールを始めた(事務所は新橋)。また、この時代には江の島にバッティングセンターを開いていたこともあった。さらに新橋のヨットスクール事務所では、当時流行したアメリカ輸入のスーパーボールという非常に弾力性のある蛍光色のボールを売っていたという。

1968年1月には新橋に居酒屋「石狩」をオープンし経営(現在、ニュー新橋ビルが建っている場所にあった)。

1968年冬には、「石狩」の常連だった映像作家・阿部博久に誘われ、トド撃ち名人の渋田一幸に弟子入りするため紋別に出向いた。

1969年春には、「ヨットの学校の校長先生みたいなことをやっているのはもう飽き飽きした」と言い放ち、妻とも離婚して、蒸発してしまった。[3]東京から蒸発した後、妻を伴って四国八十八ヶ所めぐり(1か月ほどかけて27か所)を経て、広島のほうに入り鹿児島から与論島に渡った。沖縄が本土復帰するのは1972年のことだから、この時点では与論島が日本最南端の島だった。唐牛は与論島を1年半足らずで離れている。

1970年7月、北海道を再訪し、厚岸で漁師見習いを始める。その頃、ムツゴロウこと畑正憲が動物王国を作る準備をしており、唐牛も手伝いに駆り出された。

その後、1971年2月、本格的な漁師になるため、「トド撃ち」で縁のできた紋別に居を定め約10年余り長逗留した。1977年3月1日にソ連が一方的に200海里宣言を通告、紋別で唐牛が乗り込んでいた船が減船の対象となったこともあり、1978年9月に漁師を辞めた(唐牛41歳)。

1978年11月、母の看病のために函館に戻った。函館滞在時には建設会社で働き口を得た。ちょうど青函トンネルの建設中であり、かつての全学連仲間は青函トンネル掘りでもやっているんだろうと噂していたが、唐牛は既に40歳を超えておりそのようなきつい仕事はできず、水道管の工事現場を自転車で回って写真に撮る仕事をしていた。

1979年、母を失って故郷の函館を離れ、上京。

1980年4月には遠軽の北海道家庭学校を訪れている。(唐牛は活動家仲間に「北海道家庭学校を創設した留岡幸助みたいな仕事がしたかった」と漏らしたことがあった。)

1981年、千葉県市川市に移住。エルムというオフィスコンピュータ販売会社のセールスマンになった。当時、オフコンは1000万円以上していたが、唐牛は営業成績トップであった。エルム時代(1982年3月)、旧知の島成郎から徳洲会創業者の徳田虎雄を紹介された。(その場には徳田の秘書、能宗克行も同席した。)1938年生まれの徳田は唐牛の1年後輩であった。徳田は医療改革のために政治を変えなければならないとの信念のもと、政界入りを決意した。唐牛はその後援を日本精工社長・今里広記に頼み、今里は自民党の二階堂進に徳田を売り込んだ。

1982年4月末に唐牛はエルムを辞めた。同時に炫耀社(げんようしゃ)なる会社を立ち上げ、不良少年の厚生施設と国際医療センターの設立を構想したが実現には至らなかった。

1982年5月には、徳田虎雄の要請で札幌徳洲会病院設立に協力した。唐牛は北大で同期だった元・江別市議の伊藤豪を頼って土地を探すよう依頼したところ、札幌市東部の白石に雪印乳業の創業者の一人、黒沢酉蔵の土地が余っていることがわかり、そこに病院を建てた。

1982年7月、唐牛は埼玉県羽生市に徳洲会病院を建設するため奔走し、1983年9月に徳洲会羽生総合病院をオープンした。徳洲会羽生病院をつくるにあたっては日本精工社長・今里広記も尽力していて病院の敷地は日本精工の工場跡地である。

唐牛は徳田の選挙準備運動のため喜界島(奄美大島の東方25キロ)に渡った。第37回衆議院総選挙(1983年12月投票)において徳田は奄美群島選挙区から出馬し保岡興治に僅差で敗れた。もっとも1983年2月に直腸がんが発覚したため、選挙中、唐牛は東京築地のがんセンターに入院中であった。

ガン発覚[編集]

がんセンターを退院後は房総半島の亀田病院に転院した。1983年9月に亀田病院を退院し市ヶ谷の自宅に戻った。10月に再び喜界島に渡るが、そこでガンの再発が判明した。10月末、リンパ節切除のため再びがんセンターを訪れ11月末には再入院した。もはやガンは体中に転移していた。

1984年の年明けには青木昌彦の母親が唐牛を慰問した。また同じ頃、自民党の将来を担うホープと目されていた加藤紘一、新自由クラブ元幹事長の西岡武夫、社会民主連合の菅直人が揃ってお見舞いに現れた。その後、唐牛は3人を引き連れてがんセンター目の前の高級料亭「新喜楽」で豪勢な食事をとった。

1984年3月4日午後8時23分死去した。享年47。通夜は3月5日、中野の宝仙寺で行われ、島成郎西部邁田中清玄徳田虎雄岩見隆夫らの姿があったが、誰かが田中清玄と唐牛の交わりをなじったことをきっかけにして殴り合いの喧嘩が起こった。翌6日の密葬の最中、鳥島近海を震源とする震度4(マグニチュード7.6)の地震があった。

本葬は19日に青山葬儀所で雨降る中、行われた。この日の東京地方の最低気温は1度で、雨は途中から雪に変わった。本葬には、紋別から喜界島まで全国から弔問客が集った。祭壇には紋別の漁師たちが寄せ書きした大漁旗が飾られていた。また、夫・藤本敏夫が唐牛と交流のあった関係で、夫人・加藤登紀子が途中から駆けつけ「知床旅情」を歌った。

その他[編集]

  • 全学連の活動資金が底をついたため、著名人のところにカンパを求めに出した。鶴見俊輔のところへ行くと10万円出してくれたが、鶴見が安保に対する抗議のために大学を辞職すると、夫人の横山貞子から「あの10万円、返して頂戴」と電話があったという。松本治一郎のところに行くと「いくら欲しいか」と聞かれたので「20万」と吹っかけたら、「二日後に来い」。二日後に行ってみると20万円をポンと渡された。森脇将光のところへ行くと「話はわかったが自分は金貸しだ。質草を持ってこい」と言われたので、使いに立った東原吉伸が、兄の壊れた自転車を持っていくと、「これで結構」と10万円貸してくれた。一番ひどかったのは清水幾太郎で、「今こそ国会へ」なんて煽っておきながら、なんだかんだと御託を並べるもののビタ一文出さなかった[4]寺山修司は一度出したカネを引っ込めた。

評価[編集]

自由民主党幹事長にもなった加藤紘一は、唐牛追想集にて、「昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る目の確かさ、鋭さ、暖かさは、保守革新の枠を超え、われら『60年安保世代の親分』と呼ぶにふさわしいものだった」との追悼文を寄せている。

評伝[編集]

  • 『唐牛健太郎追想集』同刊行会、1986年
  • 佐野眞一 『唐牛伝 敗者の戦後漂流』小学館、2016年

脚注[編集]

  1. ^ 唐牛健太郎』 - コトバンク
  2. ^ 佐野眞一『唐牛伝』小学館、2016年。 
  3. ^ 日吉眞夫『屋久島 日常としての旅路』麗沢大学出版会、2005年。 
  4. ^ 堤堯久保紘之(・ゲスト加地伸行) 『蒟蒻問答』 100回。月刊WiLL 2014年9月号、106-107p。この発言は堤が唐牛から聞いたものと書かれている。

参考文献[編集]

  • 西部邁 『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー』、「第1章 哀しき勇者―唐牛健太郎」
文藝春秋、1986年/洋泉社MC新書、2007年/文春学藝ライブラリー、2018年

外部リンク[編集]

  • 唐牛 健太郎 - 函館市文化・スポーツ振興財団「函館ゆかりの人物伝」