向井亜紀

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むかい あき
向井 亜紀
本名 髙田 亜紀(たかだ あき)
(旧姓:向井)
生年月日 (1964-11-03) 1964年11月3日(59歳)
出生地 日本の旗 日本 埼玉県大宮市(現:さいたま市西区プラザ
身長 170 cm
血液型 A型[1]
職業 女優タレント
ジャンル テレビドラマ映画
活動期間 1985年 -
配偶者 高田延彦(1994年 - )
事務所 ホリプロ(過去)
エヴァーグリーン・エンタテイメント(過去)
高田道場
公式サイト 向井亜紀オフィシャルWEBサイト
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向井 亜紀(むかい あき、1964年11月3日[1][2] - )は、日本女優タレント。本名:髙田 亜紀(たかだ あき)、旧姓:向井。夫はプロレスラー・総合格闘家の高田延彦。所属事務所は髙田道場[1]。現在は東京都在住。

埼玉県大宮市(現:さいたま市西区プラザ)出身[1](上福岡市(現:ふじみ野市)出身とする場合もある[3])。蕨市立北小学校(1年生)、大宮市立馬宮東小学校(2年生)、大宮市立栄小学校[注 1](3年生〜6年生)、大宮市立馬宮中学校埼玉県立浦和第一女子高等学校を経て、日本女子大学家政学部家政理学2部生物系[注 2]中退

来歴[編集]

両親と兄と妹と暮らしたが医師だった父の転勤に伴い、後に開業するまでは埼玉県内を一家で転々とした(幼稚園の2年間は、山梨県に住んでいた)[3]。小学生の頃から理系を志望しており、将来は中学校理科教師を目指していた[3]

日本女子大学では生物農芸学を専攻[3]。在学中に芸能界入りすると情報を発信する仕事に強く惹かれ、本格的に仕事をしたいと思ったことから[3]、2年次に大学を中退した。

1983年秋に文化放送ミスDJリクエストパレード』で現役女子大生DJとしてデビュー[3]。同番組は、1980年代に起きた“女子大生ブーム”の走りとなり[4]、これにより人気を集めてテレビ番組のリポーターとしても活躍を始める。以後しばらくは、アイドルとしてグラビア写真集トレンディードラマなどにも出演。クイズ・バラエティー番組では『アイアイゲーム』(フジテレビ)で初のレギュラー出演を、そして1985年には『TVプレイバック』(フジテレビ)でもレギュラー回答者として出演した。

1993年に放送が始まった旅番組『朝だ!生です旅サラダ』では、長年に渡りレギュラーを務めていた[3]が、2023年3月25日の生放送を最後に番組を卒業した。翌1994年プロレスラー高田延彦結婚したが、その後がん発覚により子宮を全摘出[3]2003年秋頃、海外での代理出産により双子の男の子が誕生した[3](詳しくは後述)。

現在(2022年)はタレント活動の傍ら、自身の経験から命やがんをテーマにした講演も行っている[3]。また、高田主宰の「高田道場」の子供向けオリジナル体操教室「ダイヤモンド・キッズ・カレッジ」の手伝いなどにも力を入れている[3][注 3]

2023年、母校の日本女子大学に通信制2年生として再入学(オンライン受講)した。大学側の好意により、取得済みの単位はそのまま有効になっているという[6]。8月からは登校講義も受講中[7]

人物[編集]

学生時代[編集]

父親は医師、母親は高校化学教師で、先述の通り引っ越しを重ねたあと父は実家で耳鼻科医院を開業した。幼稚園の頃から数年間は友達とは普通に話せたが、両親以外の大人相手だと緊張する子だった[3]。小学2年生の担任教師の支えにより、大人に対する人見知りを克服[3]

また、同教師の影響で読書好きになり[注 4]、子供の頃は特に宮沢賢治の作品が大好きだった[3]。同時に生前宮沢が地学教師だったことから理科に興味を持ち始めた。その後小学4年生の誕生日に顕微鏡をもらうと田んぼの水などの観察に夢中になった[3]

本人にとっては学校の教科書も他の本(文学作品など)と同じ感覚で読んでおり、4月に配られると短期間で最後まで読んでいた[3]。教科書を読むのが自然と予習となったため、中学入学後も塾などには行かなかった[3]。高校進学後は、新体操部に入部して充実な部活生活を送ったが、進学校なためさすがに教科書を読むだけでは追いつかず成績が下がった[3]。しかしその後高校にいる生物教師に憧れを持ったことから、将来研究者か教師の道に進むことを目指して勉強に励んだ[3]

女子大生としてDJデビュー[編集]

大学入学後、芸能事務所から「ラジオ番組のオーディションを受けてみませんか?」と声をかけられた[注 5]。それが文化放送の『ミスDJリクエストパレード』の現役女子大生を対象としたDJコンテストだった。この時は特に芸能界入りを目指してはいなかったが、とりあえずオーディションに参加した所優勝し[注 6]、同番組にDJとして出演することになった[3]

同番組に出演すると、マイクを通して発する言葉にリスナーからリアクションが返ってくることに大きな刺激を感じた[3]。たちまちこの仕事に夢中になり、その後芸能界で多くの人の心に関わっていきたいと決意し、両親の反対を押し切って大学を中退[3]。ミスDJ卒業後様々な番組でリポーターを務めると、訪れた土地や出会った人の魅力などを視聴者に伝える仕事にやりがいを感じた[3]。この番組を見た関係者により、旅番組『朝だ!生です旅サラダ』のレギュラー抜擢に繋がった[3]。 2023年3月25日旅サラダを卒業した。

代理出産[編集]

代理出産の経緯と双子の誕生[編集]

高田との結婚後の2000年9月、病院の検査で妊娠判明と同時に子宮頸癌が発見される[3]。妊娠継続の道を懸命に探ったが病巣が大きくて深く、医師にこのままでは命の危険があると判断された[3]。妊娠16週(妊娠5ヶ月)の時に妊娠継続をあきらめ、同年11月21日広汎子宮全摘出手術を受ける。同年12月19日、病状報告会見。

後日海外に代理出産により子供を授かる方法があることを知り、夫婦で代理出産の実情を調べた上で挑戦を決意。その後の会見で「(夫である)高田の(優秀な)遺伝子を残したい」と発言し[3]2002年8月、代理出産依頼のためアメリカ合衆国ネバダ州へ渡る。

この8月、同年12月と2度、体外受精による胚を代理母サンドラの子宮に移植し着床を試みるが失敗[注 7]。翌年2003年、新薬による成果で「奇跡的に」卵子が3つ採卵できた。高田の精子と体外受精を行い、胚を代理母シンディの胎内に移植したところ、2つの胚が着床に至った。同年11月、シンディの帝王切開出産により、双子の男児を得る。

2004年1月15日、都内ホテルにて代理出産による双子誕生の報告会見を夫妻揃って行い、双子の実名も発表[注 8]。子供たちの戸籍に関しての質問に対して、向井は「アメリカ人であろうが、日本人であろうが、実の親子であろうが、養子であろうが、自分たちが親子であればそれでいい。紙の上のことは後付けでいい。本当の家族であることに変わりない」と宣言し、父親である高田も「(法改正に)頑張ろうという気持ちはない。今あることが僕たちの家族のスタイル」と答えた。

出生届に関する裁判の経過[編集]

上記の会見から7日後の1月22日、夫妻揃って東京都品川区役所に双子の出生届を提出した。しかし区役所はこの日書類を受理せず[注 9]「預かり」の形となり、同年6月に不受理になった。法務省は「日本では産んだ女性が母親。向井さんを母とは認められない」と指摘し[注 10]、向井らに出生の経過についての書類の提出を求めた。向井・高田夫妻は出生届不受理決定を不服とし、東京家裁へ処分取り消しを申し立てる[注 11]。しかし翌2005年11月、東京家裁が申し立てを却下したことから、向井側は東京高裁に即時抗告した[注 12]

2006年9月29日東京高裁は「子供の福祉の観点」「米国の確定裁判を承認すべき」との理由により、品川区役所に出生届受理命令の判断を下す[8]。同日、向井はこれを受けて、「区側が上告する可能性もあります」としながらも「嬉しい」との素直な気持ちを告白。

同年10月6日、法務省は、上記東京高裁の判断について「最高裁判所の判断が必要[注 13]」として、品川区役所に不服申し立てをするよう指示。同月10日、品川区役所によって、高等裁判所の判例において許可抗告[注 14]が申し立てられた[注 15]。これにより、代理出産で生まれた双子の出生届受理に関する結論は最高裁へ持ち込まれた。2007年3月23日、最高裁は、「立法による速やかな対応が強く望まれる」としながらも、品川区の出生届の受理を命じた東京高裁決定を破棄し、最終的に「受理は認められない」とする決定をした[9]。これにより、向井夫妻側の敗訴が確定した。

その他代理出産に関して[編集]

遡って2000年11月に向井の妊娠時に子宮の全摘出手術を受けたことと、「赤ちゃんを守れなかったのに自分は生きている」という自己否定の気持ちに陥ったことで、一時心身ともに衰弱した[3]。何とか気持ちを持ち直して退院後から仕事にも復帰したが、予後の悪さから以後様々な病気を重ねた。これにより2013年頃のS状結腸がんの手術など、2022年11月までに18回もの手術を経験[3]

2001年前後に代理出産に挑戦する会見を開いて以降、周りから「なぜ代理出産をオープンにしたのか?」と聞かれるようになった[注 16]。本人は後年、「私にとって、命懸けで子供たちを産んでくださった方の存在を隠すことは考えられません」と理由を述べている[注 17]

双子に巡り合わせてくれたシンディとはその後も一緒に旅行に行くなど、2022年現在も家族ぐるみの交流を続けている[3]。また息子たちには、物心つく前から代理母のシンディのことを話している[3]。その後息子たちは、ハワイの高校に留学した[3]

その他エピソード[編集]

好きな食べ物は、鉄火巻、かりんとう[1]。また、夫婦共に無類の好きである。

趣味は、旅先で旬の海の幸・山の幸を肴に地酒を愉しむこと、水まわりの掃除[1]

印象に残っている映画は、『ブレードランナー』。感銘を受けた本は、『老人と海』。好きな歌は、山下達郎の『アトムの子』、真心ブラザーズの『サマーヌード[1]

苦手なことは、霊感スポットやそのリポートに行く仕事[注 18]

出演[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

Vシネマ[編集]

  • ダイハードエンジェルス 危険に抱かれた女たち(1991年)出演:秋本奈緒美、向井亜紀、桜樹ルイ星遥子飯島直子
  • ダイハードエンジェルズ2(1991年)監督: 沢田アーサー貢 出演: 秋本奈緒美、飯島直子、向井亜紀、桜樹ルイ

イメージビデオ[編集]

  • 熱風ビーナス(1988年・東宝)
  • Runatic Vibnration(パワースポーツ)
  • VIDEO スコラ(1989年・スコラ
  • スコラ nu! nu!touch(1989年・スコラ)

バラエティ[編集]

トーク番組[編集]

CM[編集]

  • やずや健康テレビショッピング「青魚の知恵」(2016年 - )

ラジオ[編集]

書籍[編集]

写真集
  • 褐色のままで(1988年)(ISBN 4847020693) 谷口征撮影/出版:ワニブックス
  • 向井亜紀 Memories(1989年)(ISBN 4764815699) 鯨井康雄撮影/出版:近代映画社

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1973年に馬宮東小学校から分離。
  2. ^ 現在は学部再編により、理学部物質生物科学科生物系となっている。
  3. ^ 全国各地で開催されており、アマチュアレスリングの要素を取り入れたプログラムがある。他にもマット運動を中心としたプログラムで身体を動かすことの楽しさや、触れ合いの中から生まれる自己肯定感を子どもたちに伝えている[5]
  4. ^ 当時地元に移動図書館が来ていたが、そこにある本を読破しようと考え、両親や兄妹の図書館カードまで使って毎回数十冊も借りるほどだった
  5. ^ 実際には、高校3年生の頃に同事務所からスカウトされたが、「受験生なので」と断った。その際「大学生になったらもう一度考えてほしい」と告げられており、大学入学後に同事務所から再び誘われた[3]
  6. ^ 審査員から大学生になってやりたいことを聞かれ、「山手線での通学が初めてなので全駅に降りてみたい」と答えた。審査員たちが呆気に取られる中、一人の審査員が「こういう女子大生がいるのも面白い」と推しことで優勝が決まった。
  7. ^ 自身の著書『会いたかった』では、ネバダ州の担当医師から提供卵を用いることを打診された経緯を説明している。
  8. ^ この時点で2人の子供は、米国国籍を持ち、パスポートを取得して日本入りしている。
  9. ^ この出生届は、出産していない向井を「母親」とし、双子を「(向井の)実子」とするものだった。しかし、現状分娩者を母親とする日本の戸籍法の解釈から、区役所側は「法務省に判断を仰ぐ」とした。
  10. ^ ただし「(双子の)日本国籍は認める。養子とする方法もある」などとして、子供の国籍は認め、かつ子を養子に入れることを勧めた。
  11. ^ 東京家庭裁判所 平成17年(家)第844号 市町村長の処分に対する不服申立事件。
  12. ^ 東京高等裁判所 平成18年(ラ)第27号 市町村長の処分に対する不服申立却下審判に対する抗告事件。
  13. ^ 「我が国の従来の考え方と異なり、問題が残っている」「(法解釈では)出産した女性を母親とする」「議論を深める必要がある問題だ」との理由から。
  14. ^ 許可抗告とは、判例違反及び法令解釈上、非常に重要な問題が含まれている場合に抗告の許可を求めて行われる。
  15. ^ 最高裁判所 平成18(許)第47号 市町村長の処分に対する不服申立て却下審判に対する抗告審の変更決定に対する許可抗告事件。
  16. ^ 当時は批判の声に落ち込むことも時々あり、渡米時には代理出産の病院があるネバダ州リノ近くのタホ湖で散歩したり夕焼けを見て心を癒やした[3]
  17. ^ シンディが双子を妊娠中、向井は彼女に負担をかけることは分かってはいたが、さすがに気がとがめることもあった。しかしそのたびにシンディは、「亜紀にも子供を持つ喜びを味わってほしいから、私自身も出産がすごく楽しみなの」と励ましてくれたという[3]
  18. ^ 怖いという理由以外に、本人曰く「取材した後、番組で面白おかしく編集されてしまうこともあるため、絶対にやらない」とのこと[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h [1] 向井亜紀オフィシャルウェブサイトのプロフィール。
  2. ^ a b c 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、150頁。NDLJP:12276264/76 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 週刊現代2022年12月10・17日号「私の地図」第539回・向井亜紀p78-80
  4. ^ 【30年の時を超えてミスDJ・千倉真理 読むっきゃない!!】メンバーに川島なお美、長野智子、向井亜紀…ミスDJは“女子大生ブーム”の走り(2/3ページ)”. zakzak(夕刊フジのネット記事) (2019年4月8日). 2022年12月13日閲覧。
  5. ^ [2] 「ダイヤモンド・キッズ・カレッジ」公式サイトより。
  6. ^ 「憧れのミスDJ座談会」での本人発言
  7. ^ 【向井亜紀 女子大生になっていた「58歳の私にも…」待望の報告に「泣いちゃだめだと思って、大谷の…」”. スポニチannex (2023年8月13日). 2023年8月13日閲覧。
  8. ^ 平成18年(ラ)第27号 市町村長の処分に対する不服申立却下審判に対する抗告 事件(原審・東京家庭裁判所平成17年(家)第844号)”. 裁判所 (2006年9月29日). 2009年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月25日閲覧。
  9. ^ 判決文”. 裁判所. 2011年11月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月25日閲覧。
  10. ^ ラジオ「Changeの瞬間~がんサバイバーストーリー」好評放送中 【随時更新】”. 日本対がん協会. 2023年5月7日閲覧。

外部リンク[編集]