プロジェクト‐ノート:日本史/過去ログ4

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宿場の読み方について[編集]

ウィキペディアで各地の宿場町の記事を見ると、記事によって「~しゅく」と「~じゅく」の読み方がバラバラになっています。例えば、板橋宿は「いたばししゅく」で英語版はen:Itabashi-shuku馬籠宿は「まごめじゅく」で英語版はen:Magome-juku大津宿は「おおつしゅく、おおつじゅく」で英語版はen:Otsu-juku・・・と見事にバラバラです。私は全ての宿場町の記事で「~しゅく」(英語版なら“-shuku”)と読み方を統一するか、「~しゅく、~じゅく」と併記にするのが良いと思っておりますが、皆さんはどう思われますか。「~じゅく」と読む方が一般的な宿も中にはあるかもしれませんが、例えば「えちがわしゅく」と読むのが一般的な愛知川宿が「えちがわじゅく」になっていて(私が「~しゅく」も併記しましたが)、英語版もen:Echigawa-jukuになっているケースもあります。--Kyoww会話2012年10月10日 (水) 15:47 (UTC)[返信]

内藤新宿を「~しゅく」とは読まないのではないでしょうか。多くは両方の読みがあると思いますが、信頼できる情報源(この場合、紙媒体の百科事典とか、『角川地名大辞典』、『日本歴史地名大系』など)で個々に調べた上で決めるのがいいと考えます。両方の読みが確認できれば併記、そのうちどちらかがより一般的であると確認できればそちらを先に書けばいいのではないでしょうか。統一の必要は全くないと思います。英語版は英語版なので、そちらと合わせる必要もありませんが、明らかにおかしいものがあったら、向こうで改名提案するしかないでしょう。--立花左近会話2012年10月10日 (水) 16:41 (UTC)[返信]
見たことのある話題なので検索してみたところ、今年(2012年)1月にノート:東海道五十三次で議論がありました。そこでは逆に当初「じゅく」に統一したいという方がいらっしゃいましたが、原則として併記という結論がでています。ご参考まで。--アルビレオ会話2012年10月10日 (水) 21:48 (UTC)[返信]
東海道の方で既に議論があったのですね。「内藤新宿」などを除いて、原則として「しゅく」と「じゅく」を併記するという形が一番良いんでしょうか。Yahoo百科事典などで「~のしゅく」とルビが振られているのも少し気になりますが・・・。--Kyoww会話2012年10月13日 (土) 14:45 (UTC)[返信]

白川伯王家歴代当主の項目名について[編集]

白川伯王家の歴代当主の項目名について皆様のご意見を頂きたいと思います。

内外アソシエーツの『公卿人名大事典』によれば、同家歴代当主の人名は白川姓の後が王号つきの人名で掲載されており(例:白川雅業王)、ネットにある学者の文章には白川雅業と載せる記述もありました。同家歴代当主の人物記事を立てる際の項目名につき、姓や王号を付けるべきかどうか皆様におはかりしたく思います。 同家は花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官の長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲。明治維新で王号を返上するまで当主がその官職にある間、非皇族ながら王号を名乗れた唯一の家系でした。この特殊性を踏まえ、ご意見を伺えれば幸いです。ただし、白川の家名は学説上、4代顕広王以降とされるのが一般的なので、3代までは「源○○」ないし「○○王」とするのが良いと思いますが如何でしょうか。--海衛士会話2013年8月19日 (月) 02:00 (UTC)[返信]

議論の前提として、白川家は皇親(皇族)ではなく花山源氏の流れを汲む公卿であること。神祇伯任官時のみ王氏に復し、王号を称するものの、任官前退官後は王号は称さず、源姓を名乗ることなどの点が挙げられます。 よって、「源○○」ないし「白川○○」でも記事名としては成立するかと思います。ただ、家名の記事が白川伯王家としているので、「○○王」ないし「白川○○王」というように神祇伯任官時の名前で記事を立てた方が整合が取れるように思います。非皇族ながら代々王号を名乗った特殊性が記事名から伝わってくる。皇族の場合、氏がないため、世襲の宮号を持たない皇族は以仁王などのように名のみを記しますが、王号を名乗る間も非皇親の王氏、つまり人臣に変わりありません(王氏に復する間は源姓を離れますが、白川の家名(名字)から離れるわけではない)。一冊しか例示がありませんが内外アソシエーツ刊行の『公卿人名大事典』にも白川雅業王などといった項目名で人物を紹介しておりますので家名+王号つきの名(白川○○王)で掲載できればと思いました。とはいえ、何分にも他に例のないことですので日本史分野に通じた皆様のご意見をうかがえればと思っております。--海衛士会話2013年8月19日 (月) 03:11 (UTC)[返信]

コメント まず、節ごと最下部に移動される方がおられれば反対しないことを表明します。
さて、本題についてですが、次のように考えました。
項目名の付け方は、基本的にWP:NCにあるとおり正式名称が優先されますが、同時に認知度見つけやすさ曖昧でなさ簡潔さ首尾一貫性が求められます。正式名称としては、これまでの慣例では最も顕著な活躍をした分野の名前(作家におけるペンネーム、幕末志士における通称、公家・大名等における諱等)を使用する例が多いと思われます。
白川家の場合、その特殊性は王号を名乗れるところにあり、ここでいう「王」は項目名から省略することとしている敬称たる称号ではなく身位に当たるものですので、省略する積極的な理由はないと思われます。
もちろん、死亡時に王号を離れている例が多いでしょうから、死亡時の正式名称として王号を省いてもダメではないとは思うのですが、その場合、業資王のように王号を使用したまま死亡した例との首尾一貫性が取れなくなるため、全ての記事に王号を採用する方が、よりよいと思います。
その場合、特殊な家系に属していることが分かりやすいこと、及び諸王との区別が容易なことにより、家名を付して「源○○王」乃至「白川○○王」とする方がよいと思います。--ろう(Law soma) 2013年8月19日 (月) 04:57 (UTC)[返信]
コメント 早速、コメントを頂き、有難うございます。お返事が遅れ申し訳ありません。まず、訂正を。国士舘大学の藤森馨氏は『平安時代の宮廷祭祀と神祇官人』の中で清仁親王の王子 延信王から顕広王までを花山王氏としてとらえ、花山源氏の創始は、資宗王からとしておらます。国学院大学の岡野友彦氏の『源氏と日本国王』によれば、白川姓は資邦王から使用されはじめたとのこと。私の記述に事実誤認がありましたのでお詫びの上、訂正します。学説に依れば白川姓は資邦王から幕末の資訓王までとなりそうですね。尤も、他の方の異論がないことが前提になりますが。私の手持ち資料は戦国期のものが多く、伯王家の記事を立てるにしても白川姓の創始までは触れませんけれども。白川を名乗る前の当主については、源姓と王号の併称は成立しないため、○○王とのみ記載するのが適当かと思われます--海衛士会話2013年8月20日 (火) 11:42 (UTC)[返信]
コメント 遅くなってすみません。私も資邦王あたりから白川家というくくりで良いと思います。傍証になるのですが、以前「時服」の記事を作成する際に参考した山下信一郎氏の論文によれば、(二世以下)の女王に給付されていた女王禄が二世皇族の減少によって最後には伯王家の女子しか対象者がいなくなってしまった(『仲資王記』治承2年正月7日・8日条)と書かれています。ですので、女王禄の記録の下限とみられる平安末期までは、海衛士さんの仰るように花山王氏として捉えるのが適切な考え方だと思われます。--水野白楓会話2013年8月20日 (火) 22:56 (UTC)[返信]
コメント 水野白楓さんにはお忙しいなか、ご教示ありがとうございます。女王禄の記録は面白いですね。お二方のご同意を頂き、心強いです。ところで白川当主が王号を称する間、その正室もまた妃なのでしょうか。皇室典範に定めたような厳密な身位がついてまわったとは思えませんが。--海衛士会話2013年8月23日 (金) 23:47 (UTC)[返信]
コメント 私もそう思いますが、その辺を書いた出典がないことには判断が付きません。--ろう(Law soma) 2013年8月26日 (月) 00:38 (UTC)[返信]
東海道の議論でも初めの方で「宿場ごとに検証するべきです」という意見が出ており、最終的にはそうすべきだと思いますが。出典がないものまで併記する必要があるのか疑問です。--立花左近会話2012年10月13日 (土) 17:03 (UTC)[返信]

個々の宿場ごとに検証して記述するというのが良さそうですね。皆様、御意見ありがとうございます。--Kyoww会話2012年10月22日 (月) 15:23 (UTC)[返信]

日本史人物記事の官名カテゴリについて[編集]

最近、日本史人物記事を「カテゴリ:○○守」のような官職名のカテゴリに登録する編集をよく見かけます(例:皆川広照 [1]、 佐久間実勝 [2])。 特にこういうカテゴライズをしましょうという話や合意がどこかにあった記憶がないのですが、どなたかご存知ありませんか? これが即何か問題というほどではないのですが、若干、疑問というか腑に落ちない感じがありまして。たとえば近世の大名などの律令官職名は、実質的な権能や職務を伴わない形式上のものでしかなく、称号のようなものです。それによって人物をカテゴライズすることに何か有用な意味があるようには思えないのです。いわば「名前に『秀』がつく人物」のようなカテゴリと変わらない気がします。無理に止めるほどでもないかと思ってこれまできたのですが、ちょくちょく見かけるとだんだん気になってきたのです。みなさんどう思われますか? --Horlicks 2012年1月2日 (月) 15:42 (UTC)[返信]

コメント ご指摘の通り律令制官職武家官位の官職を一緒にカテゴライズしているのに加え、より相当位が高い数多の官職のカテゴリがないのに、国司のカテゴリだけあることにも違和感があります。当方も静観してきましたが、実際にどの程度有用なのか諸兄のご意見をお伺いたく存じます。--Snap55 2012年1月2日 (月) 16:37 (UTC)[返信]
コメント私も(特に僭称官名が横行する中世以降)受領名でカテゴライズする意味はあまりない気がします。藤原為時平資盛松平忠直大岡忠相水野忠邦というほとんど共通点のない人物が同じカテゴリに分類されるというのは、正直頭の中に疑問符が大量に…。また、左右大臣くらいのレベルならまだしも諸大夫レベルの受領ではカテゴライズされる人物も非常に多く、Horlicksさんの言われるような「名前に『秀』がつく人物」とかあるいは「財務省主計局長になった官僚」くらいの意味の薄いカテゴリだとは思います。ただ意味は薄いものの、これらを排除するとか積極的な反対をするほどでもないのかなというのが個人的印象です。確かにほとんど需要は感じませんが、世の中には「越前守を名乗った歴史上の人物にはどんな人がいるんだろう」という疑問を持って百科事典を調べにくるような人がいないとも限らないので…。もちろんみなさんの意見で結果的に排除されても特に文句はありませんが(今のところ「鶏肋」未満といったところか…)。難しいところですね。--トホホ川 2012年1月2日 (月) 16:45 (UTC)[返信]
該当カテゴリーを作成したのは私です。律令制の旧国名を閲覧した際に、実際の国司と武家官位が何れも「国司」として記載されていたため、「武家官位」を別立てにしました。その際にカテゴリーを確認したところ、「上総介」など一部の国司がカテゴリーにあったため、XX守のカテゴリーを作成しています。高位官カテゴリーに関しては、後々作成しようかと考えていますが、現在旧国を編集中ですので、国司を優先しています。--Hkusano 2012年1月2日 (月) 16:59 (UTC)[返信]
京官の官職カテゴリーも作成される予定でしょうか?さすがに以下理由で反対です。①特定の人物について数十ものカテゴリーに属す場合が想定され見栄えが悪い。②出典となるネタ史料が必ずしもあるとは限らないため不十分な内容となる可能性がある(『国司補任』のある地方官のようにはいかないのでは)。とりあえずCategory:兵庫頭は不要ではないかと思慮します。ちなみに、大納言中納言は任官者リストの作成が試行されましたが結局削除されています。→ノート:中納言--Snap55 2012年1月2日 (月) 18:09 (UTC)[返信]
他の官位に関しては了解しました。--Hkusano 2012年1月2日 (月) 18:33 (UTC)[返信]
カテゴリに関しては他の方々と同様疑問に思っておりました。一方でトホホ川さんのおっしゃるような調べ方もあり得ます。しかし、例えば室町期における「左馬頭」叙任者などには意味もあるでしょうが、それはカテゴライズではなく馬寮に記載されていればよいことです。そんな感じでは如何でしょうか。--ろう(Law soma) D C 2012年1月4日 (水) 00:53 (UTC)[返信]
コメント 私は主に平安時代の貴族の項目しか見ないのですが、中央の上流貴族の遥任の国司と、受領国司とでは、ずいぶん意味が変わってくるのに、カテゴリー化のために全く階級的に違う人が、似たような閲歴ととらえられてしまうことはないかな?と思いました。特に、いくつかの編集を見ていると、国守であることを本文中に入れるために、文意を損なっていたり、意味もなく強調されてしまっていたりしていて、Wikipediaをあまり使わない人が読んだときに、国守であることの重要性を誤解してしまうことがあるように感じられたのです。ここはまあ、記述の方法次第という面もあるので、見当違いの意見かもしれませんが、気になった点として。--CalendrierChien 2012年1月18日 (水) 07:16 (UTC)[返信]

ここまでの議論をみたところ、国司のカテゴリの作成には消極的ないし反対の意見が優勢だったと思うのですが、この議論の後にもカテゴリ作成は続けられています。その結果、実在性が疑われている国分胤実に美濃守カテゴリが付けられました。自分が作った記事ですが、系図上で創作された可能性が高い人で、これを他の確実な美濃守と同列にするのはどうでしょう。実在があやしいというのでなくても、任官の事実があやしいケースは他にもあるはずです。カテゴリ作成に反対する論拠が一つ増えたものと思います。

既存の国司カテゴリを削除依頼に出して削除し、かわりに陸奥守出羽守など国守の単独記事を作成することを検討していただきたいと思います。国守記事は既に記事ができている少数を除き、令制国からの分割でスタートできます。多くの令制国の記事は既にかなり大きくなっていますが、将来的にはもっと大きくなってよいものです。分割は国記事を軽くするために役立つでしょう。一覧記事はカテゴリと異なり、あやしげなものに出典をもとめたり、除いたりというメンテが可能です。任免一つ一つに出典を付けていくことで、真に有用な一覧に仕立てることも可能です。時代を分けたり、解説を載せたりすることで、この場で指摘された多くの問題をクリアすることも期待できます。

以上、国司カテゴリ削除と、国守記事への分割の2提案について、ご意見をください。--Kinori 2012年2月21日 (火) 14:56 (UTC)[返信]

賛成 Kinoriさんの両ご提案・趣旨に賛成です。なお、国司の長官(陸奥守など)のリンク先は各国守の項目にすればよいと思いますが、次官以下(陸奥介など)のリンク先はいかが致しましょうか(各国守の項目でいいですかね)。--Snap55 2012年2月21日 (火) 15:14 (UTC)[返信]
賛成 Snap55さんのご懸念を払拭する対策としては、少数ある国守記事を全て国司記事に改名し、介以下も併せて記述するという手があります。要はKinoriさんのご提案中「国守の単独記事」を「国司の単独記事」とするというものです。上総介等の親王任国にも対応できますし、ご一考ください。--ろう(Law soma) D C 2012年2月22日 (水) 02:40 (UTC)[返信]
賛成 Kinoriさんの御提案に基本賛成ですが、Law somaさんの進め方なら、次官以下の記述とリンクの件もスッキリしてより良いかと思いましたので。--故城一片之月 2012年2月22日 (水) 13:55 (UTC)[返信]
賛成 Law somaさんの提案に賛成します。ひとまず方針だけでも決めないと、ですね。--Horlicks 2012年2月22日 (水) 14:38 (UTC)[返信]
賛成 Law somaさんのご提案内容が、先々のことも含まれていて、いいように思いました。--CalendrierChien 2012年2月23日 (木) 03:47 (UTC)[返信]
コメント律令制の国司に関して別項目にするのは賛成です。が、武家官位はどうしましょう。もともと私が「XX守」カテゴリーを作成したのは、令制国の「国司」セクションに律令国司と武家官位が混在しており、しかもそれが不完全であったため、これを整理しようとしたためです(削除するのは乱暴かと思いまして)。律令国司に関しては「国司補任」がありますが、武家官位に関しては一旦カテゴリーを作成し、その中から江戸期に関しては大名、それ以前に関しては守護、守護代クラスを中心にピックアップしていました。実はカテゴリーに関してはこの「武家官位」リスト作成を効率的に行うために作ったようなものです。武家官位など意味はないとの意見もあるでしょうが、リストにしてみると結構面白いんですけど。「武家官位のXX守」という項目を作って、「武家官位」からリンクをはるのも手ですが、この場合でもカテゴリーがあった方が作成は容易です。編集用の隠しカテゴリーみたいなものがあれば良いのですが--Hkusano 2012年2月25日 (土) 02:38 (UTC)[返信]
武家官位に意義があることは私も同感です。ぜひ国司記事に加えていただきたいと思います。しかし、カテゴリを使って、というかウィキペディアを使ってまとめるのはいただけません。記事に間違いがあったときに困ります。むしろ既存の記事の検証を兼ねるつもりで、何か別の信頼できる文献資料を使うのが良いです。--Kinori 2012年2月26日 (日) 01:52 (UTC)[返信]
コメント了解しました。寛政重修諸家譜の索引等を使用すれば、江戸中期までは大丈夫だと思います。ところで参考資料なのですが、記事としてXXの守を『国司補任』を基に作成することがそもそも妥当なのでしょうか。基本的にはデータには著作権はありませんので、大丈夫とは思いますが。XXの守に特化した記事となると、リスト部分がほとんどになるので、ちょっと心配になります。任免の一つ一つに出典をつけるとの提案もありますが、100人を越えるリストに全て出典をつけるというのは出典だらけになってしまうのではないかという懸念、また国司補任には出典がありますので、国司補任を参考資料とすれば、元出典までは要らないのではないかと考えるのですが。以上のコメントは、Hkusano会話履歴)氏が[2012年2月27日 (月) 04:25 (UTC)]に投稿したものです(Snap55による付記)。[返信]
著作権侵害懸念について。現在ある各令制国項目中の国司リストはOKで、新たに作成する各国司項目中の国司リストならNGということはないと考えます。問題があるのなら各令制国項目中の国司リストを直ちに削除すべきでしょう。私見ですが、『公卿補任』による「官歴」リストや、『尊卑分脈』による「系譜」が問題になっていないようですので、『国司補任』による「国司」リストも問題ないと考えますがいかがでしょうか
出典表記について。技術的な話ですが、参考文献セクションに『国司補任』を挙げておき、特に脚注の付加がない記述は『国司補任』に基づく旨明記すれば、出典付記の繁雑さは回避可能とは思います。なお、元出典の要否については識者のコメントを待ちたいと思います。
別の話でLaw somaさんにお伺いしたいのですが、「国司記事」の項目名とは「陸奥国司」のようなイメージでよいでしょうか--Snap55 2012年2月28日 (火) 15:25 (UTC) 識者のコメントがあったことから私見取り消し--Snap55会話2012年3月7日 (水) 14:21 (UTC)[返信]
仰るとおりです。ついでに言えば、「陸奥守」「陸奥介」等も全部「陸奥国司」へのリダイレクトにしておくイメージです。で、ローカルルールを立てて、親王任国以外の国司記事における一覧は、原則国守しか載せないとか、介以下は受領しか載せないとかを決めれば尚良いと思います。単なる一覧記事にはしたくありませんが、一覧が不要とも思っていません。理想を言えば、知行国主も記載するとか、播磨守になれば後は公卿になるしかないとか、その「国」自体と言うより「国司」関連の記述も「国司」記事に入れたいですね。--ろう(Law soma) D C 2012年2月29日 (水) 01:56 (UTC)[返信]
私は『国司補任』から取り込むことには反対です。ウィキペディアの補任の記事には『国司補任』が『公卿補任』や『蔵人補任』と同様の古い史料であると書かれていますが、事実はどうやらそうではなく、宮崎康充氏が未公刊のものも含めた多数の史料を駆使して編纂し、1989年以降に刊行された書籍であるようです。この本の情報をまるごと取り込むのは、著作権侵害とされずとも、法律上保護される利益を侵害する(民法709条の不法行為とみなされる)おそれがあります。六国史と『公卿補任』は、著作権期間が切れており、電子テキストが公開されていますから、そういうものを作業の基礎にするのがよいでしょう。『国司補任』のような文献は、それを参考に元史料までたぐって確認する手段として活用すればよいと思います。
あと、国司記事にまとめることには賛成ですが、その場合、紙面に限りがあるわけではないので、掾以下も全部入れてしまえばよいと思います。特に排除する理由はありませんし、含めて表にしている資料もみかけますので。--Kinori会話2012年3月4日 (日) 03:32 (UTC)[返信]
Kinoriさんの案に賛成です。自分でも陸奥大目は記録に残っている人物がいるよなあとか思っておりました。--ろう(Law soma) D C 2012年3月5日 (月) 10:07 (UTC)[返信]
ではそろそろ取りかかりましょうか。手順としては、Wikipedia:Bot作業依頼でカテゴリの除去編集をお願いし、それが完了してから削除依頼に出します。国司記事の作成は、カテゴリ削除の進捗にかかわらず、令制国記事からの分割または国守記事からの移動として、個別記事のノートで提案し、実施しましょう。反対がなければ2、3日中に依頼を出します。--Kinori会話2012年3月9日 (金) 15:50 (UTC)[返信]
Wikipedia:Bot作業依頼#令制国の守・介カテゴリの除去を出しました。Category:律令制の国司のサブカテゴリを全部除去してくれ、という形で依頼してあります。Category:律令制の国司は代わりになる国司記事の基本カテゴリとして引き続き利用したいと思います。--Kinori会話2012年3月13日 (火) 12:33 (UTC)[返信]
どうも、お手数様でした。私の方は今週はあまり時間が無い上に、LTA対応で思うように出来ないかも知れませんが、なるべくお手伝いできる様にします。各・律令制国の記事ノートに国司項目の分割を提案する場合、提案文の定型文があると便利ですし、齟齬がないと思いますがいかがでしょうか。--故城一片之月会話2012年3月13日 (火) 12:48 (UTC)[返信]
◆お疲れ様でした。定型文としては次のようなものでは如何でしょうか。--ろう(Law soma) D C 2012年3月14日 (水) 00:35 (UTC)[返信]
== 「○○国司」への記事分割提案 ==
本文中、国司に関する記述を、[[○○国司]]に分割することを提案します。
分割理由は、[[Wikipedia:ページの分割と統合#ページの分割]]の「分割すべき場合」「ページ中で特定の説明だけの分量が多く、明らかにバランスを失している場合」です。この分割により、本記事を軽くするとともに、国司一覧記事の作成によりカテゴリでの対応に際し指摘されてきた問題を解消することも期待されています。なお、これまで[[プロジェクト‐ノート:日本史#日本史人物記事の官名カテゴリについて]]で議論され、全ての国記事に関し国司記事を分割するとの合意が成立しております。--~~~~


賛成 :Law somaさんの定型文案、簡潔に纏めて頂き、良いですね。私だと何か長くなってしまいそうなので勝手言って済みません。私はむろん採用異議なしです。--故城一片之月会話2012年3月14日 (水) 13:51 (UTC)[返信]
コメント横から失礼いたします。Category:兵庫頭‎や[[:Category:秋田城介‎]‎]も対象になると思うのですがいかがでしょうか。陸奥国司の記事を見てみたのですが、北条氏照のように官位が叙任されていない受領名の人物にまで掲載されているのは違和感を感じます。単なる受領名しか確認されない人物については排除すべきだと思います。--F.M.H会話2012年3月26日 (月) 22:31 (UTC)[返信]
コメント北条氏綱に関しては、左京大夫の任官資料があるようですが、今のところ北条氏照の陸奥守任官資料は見当たりませんね。ゆえにF.M.Hさんの御意見はもっともと思いますが、実際の叙任事実を資料で確認するにはまた個別の作業が必要でしょう。今回のこの議論は国司と国守のカテゴリの並立・混乱を避け、国司記事の軽量化を図るのが第1目標なので、御提案の件はこの該当作業が落ち着いたものから、個々の案件として各該当項目のノートページに改めて提案されてはいかがでしょうか?--故城一片之月会話2012年3月27日 (火) 12:33 (UTC)[返信]
F.M.Hさんの意見についてはほぼ同感です。受領名を調べる可能性が本当にないのかはちょっと自信がありませんが、一緒に並べるのは論外でしょう。私は中世以降についてよく知らないので、陸奥国司を作るとき確かめずに転記してしまいました。他にも信頼できない部分はあるはずです。が、それを分割作業と同時にチェックするのはしんどいので、故城一片之月さんがおっしゃように、個別気がついたものをその都度修正してくだされば、と思います。--Kinori会話2012年3月29日 (木) 05:50 (UTC)[返信]
コメント 秋田城介‎については国司でもあり、出羽国司のサブページ的扱いで別途整理できますが、既に記事があり一覧機能も備えていることから、出羽国司の一部に{{main}}を貼って誘導すれば当面は足りるのではないかと思います。兵庫頭については、故城一片之月さんのおっしゃるとおり本節での議論とは別個に改めて検討すべきかと思います。--ろう(Law soma) D C 2012年3月29日 (木) 06:00 (UTC)[返信]

Wikipedia:削除依頼/国司カテゴリを出しました。--Kinori会話2012年4月12日 (木) 02:12 (UTC)[返信]

順序が後先になって申し訳ありませんが、上記削除依頼にCategory:秋田城介も追加しました。現状のカテゴリ構造では国司カテゴリに入っておりませんでしたが、本来的には国司(出羽介)ですので、令外官としてだけでなく国司として一括処理すべきと思います。3月29日 (木) 06:00 (UTC)の投稿で了承を頂いていたと誤認して、依頼に追加したものですが、改めて報告します。--ろう(Law soma) D C 2012年4月12日 (木) 05:18 (UTC)[返信]

武家官位の定義について[編集]

上記のとおり議論もまとまり徐々に国司記事が出来てきて、項目作成者、項目分割者、その他の関係者の皆様方に感謝しております。

さて、各記事を拝見していると「武家官位」という節が後段に設けられております。おそらくは武家官位のことと思いますが、であれば戦国期の自官から江戸時代の名乗りまで含むものになります。流石に受領名まで記載する必要はないでしょうが、正規の官位と武家官位の線引きはどのようにしたらよいのでしょうか。いずれも口宣案に載る名前であり受領名とは異なります。正規の官ではないと定義されている江戸期の名乗りだけを指すのであれば、戦国期に正規に叙任された各大名も上段の区分に移動しなくてはなりません。皆さんのご意見をお聞きします。--ろう(Law soma) D C 2012年5月8日 (火) 01:48 (UTC)[返信]

コメント「武家官位」については、叙任された江戸期の大名・旗本(大藩家老)に限って記載したほうが良いと考えます。戦国期以前の武家に関しては上段に移動するのが適切ではないでしょうか。いずれにせよ、「国司」の記事に自称まで載せるのは論外でしょうね。--F.M.H会話2012年5月9日 (水) 13:22 (UTC)[返信]
それが妥当ですよね。戦国期以前の武家は、自官でないもののみ上段移動で、自官は除去ということで。もうちょっと意見を待ってみてから対処します。実際に分割される方も、ここの意見にご留意ください。--ろう(Law soma) D C 2012年5月10日 (木) 00:55 (UTC)[返信]
叙任された江戸期の大名・旗本(大藩家老)を「武家官位」節とし、戦後期以前の武家で叙任されたもの(自官でないもの)は上段移動(令制の国司の各節に移動)に同意です。--故城一片之月会話2012年5月11日 (金) 14:52 (UTC)[返信]
報告 現状の国司カテゴリの中の記事について、上記に則し上段移動しました。その際、穴山信君についてのみ、受領名ではないかとの疑いからコメントアウトしました。間違っている場合にはご指摘下さい。--ろう(Law soma) D C 2012年5月18日 (金) 07:48 (UTC)[返信]

官名の記事に付いて[編集]

つい最近、常陸介という記事が作成されましたが、この記事の中心は歴史上の官名ではなく、源氏物語の登場人物としての「常陸介」です。現時点ではウィキペディアの記事中「常陸介」は源氏物語の登場人物を指していることが多いのですが、今後を考えるとこのままで良いか疑問があります。是非本プロジェクト参加者など、歴史に関心のある方のご意見をノート:常陸介までお寄せください。--アルビレオ会話2012年5月8日 (火) 21:14 (UTC)[返信]

日本の荘園の表記について[編集]

日本の荘園(庄園)についての表記は統一するべきなのでしょうか。実は河内荘の曖昧さ回避化を提案したのですが、改名後の曖昧さ回避化の処理で、史料その他で「河内」としか表記されていないものも「[[河内 (○○)]]」としていいものかどうか、ふと疑問に思いましたのでこちらでお尋ねさせていただきます。既に方針が定まっているのでしたらすみません。--胡亂堂 2012年1月15日 (日) 15:46 (UTC)[返信]

個人的には「荘」か「庄」のどちらかで統一した方がいいと思います。--水野白楓会話2012年7月15日 (日) 02:43 (UTC)[返信]
◆私も固有名詞以外は統一した方がよいとは思いますが、どちらが多く使用されているかの調査も必要かと思います。ちなみにCiNiiでは、荘21929件庄46191件でした。人名や「別荘」も拾ってしまうため「園」を付けて検索し直すと、荘園1196件庄園159件でした。あとは教科書とか他の百科事典、日本史用語辞典等の使用頻度も見る必要がありそうですが、一応「荘」がよいように思います。--ろう(Law soma) D C 2012年7月17日 (火) 01:35 (UTC)[返信]
一般論としては手元の辞書をぱらぱらと見た限りでは、「荘園」が正しいように思います。ただ、今回の胡亂堂さんのお話はそうした一般論の話ではなく、河内庄のように出典をあたる限りでは○○荘としているものがなく、○○庄のみとなっている場合の話ですよね?この場合には出典がない○○荘を使うのは独自研究のきらいがありますし、○○庄を使うべきと考えます。一方で、○○荘と○○庄の両方とも出典がある場合、Wikipedia内における記事間の整合性や統一性を重視して可能な限り○○荘を使った方がいいのではないでしょうか。--machine_gun会話2012年7月18日 (水) 08:18 (UTC)[返信]
『国史大辞典』などの辞典・事典類では「荘」で統一の傾向が強いように思われます。個人的には個々の出典がなくても、「荘園」「○○荘」の名称の付け方が一般的であることが示せる出典があれば、必ずしも独自研究とは言えないと思います。--水野白楓会話2012年7月23日 (月) 22:21 (UTC)[返信]
一般名詞として使う分には「荘園」でいいと思いますが、○○庄/○○荘というのは固有名詞であり、地名化している場合もありますから、本当に○○庄の表記しか用例が見つからないのであれば、その表記にすべきだと思います。また、両方の用例がある場合は、個々に検討するしかないと考えます。たとえば、今Category:日本の荘園にあって○○庄となっているのは足利庄本庄 (神戸市)の二つだけですが、前者は『世界大百科事典 第2版』(コトバンク)によれば「足利荘」になっていますから、他にも用例が多いようなら現在リダイレクトになっている足利荘に改名するという選択肢もあり得るでしょう。後者は現代にも地名(本庄町 (神戸市東灘区))として残っており、また記事は荘園を一義としながら地域としての解説が主なので改名のしようがないのですが、記事内でかつての荘園の解説が増えたり、それを分割する必要がでてきたりしても、本庄表記でいいのではないかと思います(もちろん、実際に分割するようなことになったとしたら、それはそのときの議論で記事名を決めることになります)。
(ところで、このご質問自体はずいぶん前のもので、ご質問者はこのところ活動されていないようなのですが)--立花左近会話2012年7月24日 (火) 01:21 (UTC)[返信]
「荘」が一般的であるけれども、「庄」も使われている、とうのが一般的な傾向としてあるということが示せたとしても、一方でその記事における出典では「庄」しか使用されていないとするならば、その記事の主題を中心的に取り扱っている出典を重視すべきであり、一般的な傾向を見ても決して使用例はないわけではなく、その記事に対する出典としては100%使用されている「庄」を用いるべきという結論の方が妥当でしょう。逆にその記事の主題を中心的に取り扱っている出典で一切用いられていない固有の表記を一般的という理由で別の表記とするのは、さすがに行き過ぎではないでしょうか。もちろん両方が使用されている場合には前述の通り、Wikipedia内における記事間の整合性や統一性を重視すべきと考えます。--machine_gun会話2012年7月24日 (火) 14:44 (UTC)[返信]
『日本荘園史大辞典』という本があります[3]。私は中を実見していないのですが、荘園の一覧が入っているそうです。『国史大辞典』もおおかたカバーしているはずですから、「荘」の用例が一切ないものは、伝説上の、あるいは家系図上のなど、研究者にもあまり知られていない荘園だけになるでしょう。
庄と荘は同じ意味で通用されており、近世以前の常識として、字体をかえることで書いた字が間違いとされるようなことはなかったはずです。記事ごとに表記が異なるのはそう悪くないですが、一つの記事の中に二つの字体を混在させ、○○は「荘」、××は「庄」と書き分けよ、というような決まり事を作ると、それはまずかろうと思います。何も決めないならそれでいいですが、何か決まり事を作るなら「荘」に統一するのがよいと思います。で、本庄のようなケースでは例外にするか個別に検討すればよいかと。--Kinori会話2012年7月26日 (木) 01:24 (UTC)[返信]

記事の改善方法について意見をお願いいたします[編集]

現在Wikipedia:コメント依頼/虚偽の出典が提示された記事を大量に投稿するユーザーについてで、IPユーザーが大量に投稿した虚偽の出典が提示された記事についての改善方法を話し合っています。該当ユーザーが編集した記事の中で大規模な改稿が行われていないものに施す応急処置として、

{{複数の問題 | 出典の明記 = 20**-* | 参照方法 = 20**-* | 独自研究 = 20**-* }}

を貼付し、参考文献・関連文献をコメントアウトすることを提案しています。現在虚偽の出典が提示されていると確認できる記事はいずれも世界史分野のものですが、該当ユーザーは日本史関連の記事も大量に投稿しています。そのため、日本史の編集を行われている方々より、記事の改善方法について意見を伺いたく思います。--オオミズナギドリ 2012年2月11日 (土) 01:25 (UTC)[返信]

賛成いたします。私は歴史分野はド素人ですが、Wikipedia:コメント依頼/虚偽の出典が提示された記事を大量に投稿するユーザーについてで、IPユーザーが大量に投稿した記事が危ういことは実際に文献にあたって確認しました。件のIPユーザーとの類似が指摘されているログインユーザーの投稿を含めて(wikipediaの記事の信頼性の問題ですから)当面の対処としてオオミズナギドリ さんの提案を支持します。--ぱたごん 2012年2月11日 (土) 15:37 (UTC)[返信]

日本史のイベントにおける年号(年月日)表記[編集]

Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間によれば、記事の中で年月日を記述する場合は西暦を原則とし、日本に関する事柄の場合は和暦を併記することが望まれるとあり、例示は2006年(平成18年)などとなっています。しかしながら多くの日本の歴史イベント記事においては、例えば桶狭間の戦いで永禄3年5月19日(1560年6月12日)とあるように、和暦が先で西暦が括弧入りの表記になっています。西暦は太陽暦で明治以前の和暦は太陰暦ですから、月日はもちろん、年号も完全に一致はしません。そして、西暦の方はこうした場合の多くが和暦から変換して割り出したものを記載しているのではないかと思われ、和暦が主で西暦が従ですから、和暦を先にした記述法の方が理にかなっているような気がします。また、WP:POVも、日本以外の国のからんだ事柄、例えば元寇などを除けば、問題にならないような気もします(そういう意味では、黒船来航で和暦が先になっているのはどうかなとも思いますが)。
そこで質問ですが、こうした日本史のイベントにおける西暦と和暦の記載順序や方法について、議論が行われたり、それによるコンセンサスができたりはしているのでしょうか。ざっと探した限りでは、プロジェクト‐ノート:日本史/過去ログ1#年号表記に付いてぐらいしか見つからなかったので、ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけませんでしょうか。--立花左近 2012年2月15日 (水) 12:13 (UTC)[返信]

Wikipedia‐ノート:表記ガイド/過去ログ7#西暦と和暦を併記する際の順序についてで議論されました。今読み返してみると、議論が途中で立ち消えになっているようです。--アルビレオ 2012年2月15日 (水) 21:18 (UTC)[返信]
ありがとうございました。一筋縄ではいかないことがよくわかりました。竜頭蛇尾に終わった感があり残念です。全てはとてもチェックできませんが、ランダムに日本の歴史関係の記事を見ていくと、現行の表記ガイドと異なりほとんどが和暦を先に書いているように思えます。いずれまた、しっかり議論して結論が出るといいのですが。--立花左近 2012年2月16日 (木) 13:06 (UTC)[返信]

永禄3年5月19日(1560年6月12日)のように和暦と西暦を併記する場合ですが、和暦のほうを永禄三年五月十九日のように漢字表記することは駄目でしょうか。一度漢字表記したことがあったのですが、ガイドレインに沿っていないためか、編集で洋数字に変えられました。幕末あたりで和暦、西暦を併記する場合に一目で分かって便利と思うのですが。--Hkusano会話2013年2月8日 (金) 15:30 (UTC)[返信]

  • 漢数字では表記の揺れが発生する(29日→二十九日、廿九日、二九日)。
  • 漢数字の方が表示に多くのリソースが必要。
  • 漢数字の方が客観的に見やすいとは感じられない(少なくとも当方は横書き漢数字は見にくいです)
  • 漢数字で書くと原典から直接引用したのかなあという印象を受けます。実際に原典にその通り書いてあるのか、原典を基に執筆者が換算したものなのか、そこの違いが重要になることはあるんじゃないかなあと。原典によっては◯◯三歳とか庚申年と表現されていることもあるでしょう。何か特別な必要があって、つまり例えば何らかの文脈上で原表記をそのまま引用したい場合とか、そういう場合に漢数字を用いることは不可ではないと思いますし、時には漢数字でなければならないこともあるかもしれません。この場合でも三と参と參とか表記の揺れには注意が必要でしょう。単に一般的な用法として年月日への漢数字使用を容認するかと言うと、ガイドラインに優越するだけの正当性を主張するのは難しそうな気がします。ただ、◯◯元年を◯◯1年とするか、ってことに関しては元年もありかもなぁと思います。--零細系統保護協会会話2013年2月9日 (土) 04:20 (UTC)[返信]
5月19日というようなアラビア数字ならグレゴリオ暦であり、五月十九日のような漢数字なら和暦である、と決めておけばわかりやすいということですよね?確かに日本史分野の全ての記事で統一的にそのような運用がなされていればわかりやすさという点ではプラスと思います。しかし、逆に統一的な運用が出来ていなければ却って混乱を招きかねず、わかりにくくなります。そして、現時点で日本史分野のほぼ全て記事はアラビア数字で表記されており、何万あるかもわからない日本史分野の記事の中の全ての月日表示を適切な表記(漢数字/アラビア数字)にするのはさすがに難しいかと思います(同じ表記のものをどちらか判断しなきゃいけないんでbotも使えませんし)。ですから、自分としては余り賛成できないな、と思います。--machine_gun会話2013年2月10日 (日) 18:07 (UTC)[返信]

藩主テンプレの氏族について[編集]

何処がで提案がなされている(いた)かもしれませんが、気になったのでひとつ。

藩主テンプレに××氏○○藩☆☆代藩主と一般的に表記されていますよね?個人的には××氏のところは複数家藩主にならずに一家だけが世襲した場合要らないのではないかと感じています。また、記事によってばらつきがある××氏や××氏のようなリンクの有無も整理した方が良いと思います。--富士の渓流会話2012年6月16日 (土) 05:33 (UTC)[返信]

以前にどこかで議論した記憶があるのですが、どこだったのか探しきれませんでした。基本的には単一書式で統一されている(=例外がない)ほうがわかりやすい、とは思います。--Horlicks会話2012年6月18日 (月) 16:25 (UTC)[返信]
返信が遅れてしまい申し訳ありません。自分も探してみたのですが恥ずかしながら発見することが出来ませんでした。まあ確かに現在のところ大半は一家であっても××氏となっているみたいですので現状のままでよいのかもしれません。ただ、リンクの有無に関してはかなりばらつきがあるので整理した方がよいのではないでしょうか。--富士の渓流会話2012年6月25日 (月) 14:18 (UTC)[返信]
横から失礼します。似たような議論としてはプロジェクト‐ノート:日本史/過去ログ1#大名記事のTemplate:先代次代の書式で先行議論がありますが、今回はTemplate:会津藩主のような藩ごとの個別テンプレートの話ですよね?だとすると先代次代テンプレートと違って、他の家が統治した事実がない、ということが一目瞭然であり、自分は省略しても問題ないのではないかと考えます。
あと、リンクについては極力リンクを設けた方がいいんじゃないかと思いますね。ただ、このあたりは難しいところで、リンク数は出来るだけ抑制すべき(は記事中に初めて出てきた時に一度だけ張ればよい)と考える方もいらっしゃると思います。藩主テンプレートはだいたい最下部ですから、張らない方がよい、ということになります。これは、リンクの数を抑制するのはリンクが多数に渡るとブラウザの挙動で問題が生じる、というのが理由だったのように記憶しています(うろ覚えなんで、間違っていたらすいません)。この辺はもうちょっと議論した方がいいかもしれないと思います。--machine_gun会話2012年6月30日 (土) 18:01 (UTC)[返信]
なるほど。私もブラウザの関係でもうあるリンクは避けた方がよいという意見は存じております。但しTemplate:甲斐武田氏当主のような当主テンプレは××氏の部分にリンクがついているみたいです。また、一家だけが世襲した場合は氏族の表記が必要ないというのは当初こちらが主張していたことでmachine_gunさんの賛同も得られたみたいですが上にも書いたように現在大半は一家であろうがニ家以上であろうが××氏がついているみたいです。これを直すとなるととても大変な作業になります。果たしてそれほどのことなのかは疑問です。--富士の渓流会話2012年7月7日 (土) 01:22 (UTC)[返信]

「九州の役」改名について[編集]

4年にわたって論争が繰り広げられた「九州征伐」ないしは「九州の役」の改名について、解決に向けて再投票も視野に入れた議論の仕切り直しを行いましたので、ノート:九州征伐までコメントいただけると幸いです。--みっち会話2012年8月3日 (金) 11:08 (UTC)[返信]

プロジェクト日本史のユーザーテンプレートについて[編集]

はじめまして。通りすがりで差し出がましいかもしれませんが、現在のプロジェクト参加者のユーザーテンプレートは下記のようなものが用いられているのですが、ピクトグラム化された日本の城郭がありましたので、更新なさってはいかがでしょうか。 また、色合いもあまり日本の歴史を連想させるような和の色合いで無いように感じます。例えば、萌葱色ですとか、鳶色ですとか、和名のある色を基調としたものに更新してはいかがでしょうか。--ocdp 2012年10月22日 (月) 08:11 (UTC)

現在のユーザーテンプレート

この利用者はウィキプロジェクト 日本史に参加しています。


日本の城郭のアイコン
個人的にはPJ日本史のユーザーボックスだけ、左側の画像部分が大きくて他と整合的じゃないなぁ、と思っていますんで、その点も含めて訂正してみました。こんな感じでどうでしょうか?カラーリングを変えたのは好みではなく、城のピクトグラムの背景が透過色である為、あまり濃くすると城が見づらくなったので、現在使っている色と同系統の色で薄めにしただけです。ただ、色の組み合わせとして、
  • 画像の背景:ピクトグラム画像の背景が透過色である為、城が見づらくない色
  • 文字の背景:ユーザーボックスの構造上、画像の背景色が周囲の枠となる為、それよりも淡い色。
を使わないと見づらくなるのではないかと感じました。ご意見をお願い致します。--machine_gun会話2012年12月7日 (金) 06:35 (UTC)[返信]


この利用者はウィキプロジェクト 日本史に参加しています。
この利用者はウィキプロジェクト 日本史に参加しています。

コメント左側にお邪魔させていただきましたが、Userboxのテンプレートを利用しますと枠も色指定できますよ。ちなみに、配色は枠が天鵞絨(びろうど)、左が錆青磁、右が白磁、という色だそうです。なんてことないこだわりかもしれませんが、和色大辞典このあたりの色を用いているのは粋かもしれませんね。--Ocdp(会話) 2012年12月7日 (金) 10:26 (UTC)[返信]

コメント いいですね!個人的には好きです。さて、問題はここから。自分としては
  • 現行のデザインだと、左側画像部分の幅が他のユーザーボックスと違うため、利用者ページに貼り付けた時にデザインが整合的でなくなる。
  • ピクトグラムの方が抽象的であり、日本語話者以外の利用者にも伝わりやすい。
という2点から、変更した方がよいと考えておりますが、皆様ご意見をお願いします。--machine_gun会話2012年12月11日 (火) 13:39 (UTC)[返信]
コメントある程度の期間(もう3週間になりますし十分だと思います)待って反応が無いのは了承ととらえて実行して問題ないと思いますよ。異論があれば戻すなりすればいいだけですし。--Ocdp(会話) 2012年12月31日 (月) 06:23 (UTC)[返信]
コメント 意見がほとんど出ないままですが、あと2日で私の変更した方がいい、という意見表明から1ヶ月となりますので、それまでに反対意見が出ないようでしたら、変更させて頂きたく思います。--machine_gun会話2013年1月9日 (水) 12:23 (UTC)[返信]
コメント 反対意見も出ないようでしたので、変更させて頂きました。--machine_gun会話2013年1月11日 (金) 15:47 (UTC)[返信]

過去ログ化のお知らせ[編集]

前回の過去ログ化から3年が経過し、解決済みの議論が溜まってきているので、過去ログ化しようと思っております。作業を進める為に、勝手ながら各議論に解決済み系のテンプレートを貼らせて頂きました。具体的な基準としては

  • 解決済み:結論が出ていると思われる議論。
  • 未解決:現在進行中であると思われる議論。
  • 失効:結論は出ていないと思われるものの、最終コメントから1年が経過した議論。

という基準で貼り付けており、このうち、解決済みと失効については過去ログ送りとしたく思います。作業は1週間後を目処に行おうと思っておりますので、もし私が進行中の議論に誤ってどちらかのテンプレートをつけてしまっていた場合にはご指摘お願い致します。--machine_gun会話2012年12月7日 (金) 06:35 (UTC)[返信]

作業完了しました。--machine_gun会話2012年12月14日 (金) 01:59 (UTC)[返信]

プロジェクトページ変更の提案[編集]

プロジェクトページについてなのですが、少し変更の提案があります。現状だとプロジェクトの概要節が一番上にきていますが、お知らせ関係を有効活用することを考えたら、お知らせ節を一番上に持ってきた方がよいのではないかと考えます。ですので、以下の変更を提案します。

  • プロジェクトの概要を参加者と合併し、一番下に置く。
  • プロジェクトの概要の範囲節を冒頭の定義部分に移動させ、どのようなプロジェクトなのかを冒頭で把握できるようにする。

それと、工事中の文言が残っていますが、そろそろこれ取ってもいいのではないかと思います。こちらも1週間程度、反対がなければ実施したいと思いますので、ご意見をよろしくお願いします。--machine_gun会話2012年12月7日 (金) 06:35 (UTC)[返信]

賛成です。また、Category:準備中のウィキプロジェクトも除去してよいと思います。--伏儀会話2012年12月7日 (金) 13:02 (UTC)[返信]
賛成 :上に同じく。--故城一片之月会話2012年12月10日 (月) 11:55 (UTC)[返信]
特に反対もないようでしたので、実施しておきました。--machine_gun会話2012年12月14日 (金) 01:59 (UTC)[返信]

不適切なカテゴライズ[編集]

武田氏の記事をCategory:武田信玄に追加したり、家紋の記事をCategory:武士に追加するという、不適切なカテゴライズをして回っておられるユーザさんがおられます。私のウォッチ対象外でも同様に日本史関連の記事で問題になりそうなカテゴライズ編集をしている可能性がありますので、念のためお知らせしておきます。ひとまず武田氏の件は差し戻したのにまた同じ編集をされたので本人の会話ページに書き込んでみました。--Horlicks会話2013年2月7日 (木) 15:59 (UTC)[返信]

「◯◯市の歴史カテゴリ」について[編集]

「◯◯市の歴史」カテゴリに入れるべき記事について疑問があります。詳しくはプロジェクト‐ノート:日本の市町村#◯◯市の歴史カテゴリの運用についてについて書きました。マルチポストで申し訳ないのですが、歴史系のPJの方にも意見を伺いたかったので、もしよろしければご意見をお聞かせいただきたく思います。よろしくお願いします。--零細系統保護協会会話2013年3月21日 (木) 08:43 (UTC)[返信]

Template:基礎情報 武士での斜体指定について[編集]

{{基礎情報 武士}}において

  • 父母「養父母は、斜体にします」
  • 兄弟「養子縁組による兄弟姉妹は斜体とします」
  • 子「養子は斜体、養嗣子は斜体かつ太字とします」

といくつかの項目で斜体が指定されていますが、相当数の読者の環境であろうWindows Vista以降の標準フォントであるメイリオでは斜体指定が有効にならず、区別ができません。そのためテンプレートでは"font-family:Osaka,'MS Pゴシック';"と特定フォントを強制する指定がありますが、見た目も悪く、好ましいものではありません。 フォント指定の除去差し戻されたり、メイリオの問題を受けない環境でもテンプレートだけ明朝体になり見にくい旨、テンプレートのノートでも指摘があります(Template‐ノート:基礎情報 武士#フォント指定なしへの希望)。斜体ではない形での識別に変えるべきではないでしょうか?--113.42.219.90 2013年5月28日 (火) 06:12 (UTC)[返信]

使われているテンプレートの数が多数に及ぶことから、全てを修正するのが難しいと感じておりました。それらが全て修正できれば、斜体を使わない方法に賛同します。--ケイ20003会話2013年10月5日 (土) 02:50 (UTC)[返信]
数年前に開始系テンプレートと基礎情報テンプレートを統合した時、小者さんがものすごいペースで修正して下さったにも関わらず1年半かかりました。恐らく今回も同じくらいかかると思いますが、単に見た目が悪い、というだけでそれだけの労力を払うのは自分は賛成できません。まして、今回の場合、1年半の間は新しい養子関係の書き方と、今の斜体による養子縁組の書き方が併存しますが、それは読者の可読性を損なうものですし。--machine_gun会話2013年11月17日 (日) 01:42 (UTC)[返信]
単なる見た目の話ではなくアクセシビリティの問題なんですがね。色だけで区別するのが好ましくない(Wikipedia:アクセシビリティ#色)のと同様に、斜体、太字だけしか区別する方法がない場合、今回のように区別できない環境が少なからず存在するわけです。それをゴリ押しするために特定フォントを強制するのもまた典型的な可読性を損なう悪手です(ユーザスタイルシートを使ってる環境にはそもそも無力です)。このような斜体太字による区ベルがこの分野では一般的なのかもしれませんが(この分野に詳しいわけではないのでよく知りません)、アクセシビリティに配慮した方法をとることを望みます。Wikipedia:アクセシビリティ#色の表現を借りるなら
フォントスタイルが重要な情報を伝達する唯一の方法にならないようにしてください。たとえば、「表中の斜体部分は○○」といった方法を取ってはいけません。そういった場合は、脚注を付ける、その「○○」を併記する、あるいは記号(※印や三角など)で表現する、などの方法を取るべきです。フォントスタイルだけで情報を表現しようとすると、そのスタイルを持たないフォントの利用者や、プレーンテキストでウィキペディアを閲覧する読者にはその情報が伝わりません。
といったところです。--113.42.219.90 2013年11月21日 (木) 11:34 (UTC)[返信]

元113.42.219.90です。こちらでの議論は停止状態ですが、Template:基礎情報 武士を参考にフォント指定が追加されていたTemplate:基礎情報_公家においてもフォント指定が除去されており、特に問題とはなっていません。それを受けて、Template:基礎情報 武士のフォント指定も除去しました。--Claw of Slime (talk) 2015年4月26日 (日) 03:25 (UTC)[返信]

遺跡や古墳における曖昧さ回避について[編集]

確認したいことがあるのですが、現在、寺院や神社の曖昧さ回避の括弧内の区分は原則として市町村名で行っておりますが、古墳や遺跡の曖昧さ回避を行う場合も同様に市町村名で曖昧さ回避を実施しても宜しいのでしょうか?

今まで寺社がそうだったので惰性で市町村名を使ってきてしまった気がするのですが、よく考えてみれば確かなルールは無かった筈です。城の場合は旧国名(令制国名)場合によっては+郡というのがほぼ慣例として受け入れられていると思われますが、他の遺跡・古墳についても都道府県か市町村かをルール化しないまでも、一定の共有認識があった方が望ましい思うのですが。--水野白楓会話2013年8月21日 (水) 22:06 (UTC)[返信]

コメント (これまでの議論を把握していないのですが)古墳・遺跡の曖昧さ回避では、ほとんどが律令制施行以前のものなので「国・郡での分類ができない」から議論が生じなかったのかと思います。律令施行以後の場合ですが、「跡」という現代の視点である以上、現代の制度で分類、つまり市町村での分類にするのが最適と思います。--Saigen Jiro会話2013年8月22日 (木) 14:41 (UTC)[返信]
コメント 特別な事情がない限り、寺社の曖昧さ回避と同様の取り扱いでよいと思います。確かにおっしゃるようにルールや議論はなかったかと思いますが、この場で共通認識にしてしまうのも手かと。--ろう(Law soma) 2013年8月23日 (金) 00:24 (UTC)[返信]
報告忘れていたこともあって1年間経過していましたが、その間異論が出ていませんでしたので、「遺跡・古墳についても市町村での回避を共通認識とする」と合意形成されたとして、古墳の各項目に関して曖昧さ回避の統一を実施いたします。--Saigen Jiro会話2014年9月4日 (木) 13:59 (UTC)[返信]
(追記) 失念しておりましたが、住所が明確に定められている寺社と異なり、古墳や古墳群の場合は市町村境界を跨ぐことがあり、曖昧さ回避との絡みが発生するかもしれません。その場合には「上位である都道府県名で曖昧さ回避を行う」か「所属する市町村名を『・』で列記する」等の対処をすることになるかと思いますので、この場で指摘しておきます。--Saigen Jiro会話2014年9月4日 (木) 15:11 (UTC)[返信]
(コメント)改名提案でも議論停止から1ヶ月で失効するのに1年放置してたんなら再度意見を求めるべきだったんじゃないですか?と書いておく。Saigen Jiroさんが移動した分について今更戻せとは言いませんがね :p --KAMUI会話2014年9月23日 (火) 09:39 (UTC)[返信]
確かに不適切な処置でした。本件の異論があれば再度議論に参加いたします。また私個人としても今後はこのようなことが無いようにします。--Saigen Jiro会話2014年9月23日 (火) 10:58 (UTC)[返信]
本件に気がついたのが幾つかの古墳記事で改名提案無しでの改名が行われていたためですが、都道府県名での区分でも間違いではない以上、改名提案無しでの改名は差し戻される可能性があります(似たような話はかなり以前に見たような覚えがありますし)。上でも書いたように議論停止から1年経過していたものを根拠としていれば「合意形成されているとは言えない」とツッコまれた時に反論できません。もし今後も同様な例を扱うのであれば、改名提案を行った上で改名すべきと考えます。なお、もし同じ都道府県内に同名の古墳・遺跡などが無いのであれば、都道府県名で区分したリダイレクト(移動の残骸)は必ずしも削除しない方が良かったんじゃないかと・・・Portal:歴史/新着項目/新着過去ログの各年の過去ログからのリンクが切れてたりするので。とりあえず以上です。--KAMUI会話2014年9月24日 (水) 12:13 (UTC)[返信]
ご指摘承知しました。今後の指針といたします。今回は色々と思慮が浅すぎたと今になって痛感しております。何よりも、改名提案等を通じてこのような貴重なご意見をうかがう場をきちんと作るようにします。--Saigen Jiro会話2014年9月24日 (水) 12:32 (UTC)[返信]

夫役と賦役[編集]

はじめまして。細かい質問ですみませんが教えてください。現在、賦役という単語は夫役へのリダイレクトになっております。そこでふと思ったのですが、「夫役」は日本史上の用語だと思うのですが、「賦役」も日本史限定の用語なのでしょうか。

私は中世ルーシ(キエフ大公国などのあたり)に関する記事を中心に翻訳しているのですが、この中に、「被支配者が支配者に対し、税の支払いと現物の労働義務(直訳)に従事せねばならない云々」という趣旨の文があり、(具体的にはスメルドという記事の中です)、このような労働は賦役と訳していいのではないかと個人的には思います(賦役は一般名詞ではないかと思います)。手持ちの露和辞書もповинностиという単語に対し、賦役、労働義務、という訳を当てております。ただ、賦役が日本史限定の専門用語であるならば、自分の訳した部分を修正したいと思います。どなたかご存知でしたら教えてください。--ノフノフ会話2013年11月16日 (土) 13:22 (UTC)[返信]

日本史以外でも使われていたはず、と思い、Web辞書で検索してみました。
大辞林 第3版とデジタル大辞泉では(1)労働として提供される地代と(2)夫役となっています。「夫役」は律令制の労働課役なので日本使用後ですが、(1)の方は世界大百科事典(これではこの意味しか出ていません)に解説があり、前近代のヨーロッパ社会に広く存在したとして、英語・ドイツ語・フランス語が記載されています。
これから見ると、「賦役」が「夫役」へのリダイレクトになっているのがおかしいようです。--アルビレオ会話2013年11月16日 (土) 19:18 (UTC)[返信]
ありがとうございます。訳はこのままでいこうと思います。
なおリダイレクトのほうは、ちょっとどう修正していいのかわからない(「賦役」で全文検索すると、日本史・西洋史・東洋史にかかわらず用いられているようです。)ので、私がいじるのは自信がないのですが…。一応、案としては、たとえば、賦役をリダイレクトではなく、あいまいさ回避ページにして、

賦役とは、労働を税として支払う制度を指す言葉である。

  • 夫役:日本史における、労働を税として支払う制度

などにするべきでしょうか。1)定義はこれでいいのか。2)記事が一つしかないのにあいまいさ回避ページ作るのはアリなのか。というのは疑問ですが。--ノフノフ会話2013年11月17日 (日) 13:59 (UTC)[返信]
横から失礼します。そういう場合は「賦役」はリダイレクトにせず、{{otheruses}}で、記事冒頭に「日本史における労働を税として支払う制度は夫役を参照」と入れて、その上で賦役の内容について本分を記載すればよいかと思います。定義については他の識者の方の意見も聞かれた方がいいと思いますが、少なくとも自分がざっと調べた範囲ではそれで誤りではないと思います。ただ、記事の内容がその定義文だけだと、スタブ未満扱いされそうな気が…--machine_gun会話2013年11月17日 (日) 15:44 (UTC)[返信]
なるほど。{{otheruses}}でいこうと思います。たしかに非常に文章量が少ないのですが、とりあえず修正しておいて、1)加筆依頼を出す 2)ノートーページに{{otheruses}}へ変更した理由を書いておく、という二つの処置でどうにか見逃してもらえないものでしょうか。(言い出した私が加筆すべきなのでしょうが、ロシア語版ru:повинностиはあいまいさ回避のページになっていて、より時代や地域が限定された事例や、徴兵制度のようなやや意味合いの異なるページのみがあるようです。すみません。)
その後、それなら今の状況のほうがいいと差し戻し等がなされるのであれば、それはそれで仕方がない(特に改めて異論を唱えない)、と個人的には思います。--ノフノフ会話2013年11月19日 (火) 11:01 (UTC)[返信]
もしできるのであれば、ですが、英語版のen:Corvéeの導入部だけでも訳しておく、という方法もあります。翻訳としてでなくても、その記事とリンクしておけば、「賦役」の特筆性の最低限の担保になると思います。ロシア語は読めないのでノフノフさんが提示したページが「賦役」のものかどうか私にはわかりませんが、上記の英語版のページはまず間違いないでしょう。なお、そこにはロシア語版へのリンクはありません。--アルビレオ会話2013年11月21日 (木) 09:07 (UTC)[返信]
それでは、1){{otheruses}}にする 2)en:Corvéeへの他言語リンクを貼る 3)加筆依頼・翻訳依頼を出す 4)ノートで理由を説明 をしようと思います。英語は手元に辞書すらなく、できれば他の方にお願いしたいです。
なお、先に挙げた「Повинность」に「賦役」と訳を当てていない別の辞書があったので、スメルドのは無難に「労働義務」に修正しておこうと思います。(というかちょっと調べた範囲でも既に、「賦役」と訳が当たっているロシア語の単語が4つほど出てきたのですが、もはやなにがなにやらであります…。)
いずれにせよ、1)2)3)4)の処理をしようと思うですが、他に何かご意見のある方はいらっしゃいますでしょうか。一週間ほど時間をとったのち、特にご指摘がなければ修正しておきます。もちろんそれ以前でも、どなたかに加筆や翻訳をしていただければありがたいです。--ノフノフ会話2013年11月21日 (木) 12:33 (UTC)[返信]
賛成 ノフノフさんの考えられておられる方向性で問題ないと考えます。4)のノートでの理由説明では、ここで先行議論・合意形成があった旨の記載をお願い致します。--machine_gun会話2013年11月25日 (月) 10:49 (UTC)[返信]

報告1)~4)の処置をとりました。みなさんコメントありがとうございました。--ノフノフ会話2013年11月28日 (木) 11:00 (UTC)[返信]

南北朝時代の元号表記[編集]

はじめまして、kyubeといいます。今利用者:Harkichi会話 / 投稿記録 / 記録というユーザが南北朝時代の元号表記を凄い勢いで編集しているのですが、プロジェクトで決まったルールはあるのでしょうか。このプロジェクト内をざっと見た限りではわかりませんでした。 --kyube会話2014年1月23日 (木) 23:56 (UTC)[返信]

どうやら北朝年号を消して、南朝年号だけにおきかえているようですね。北朝年号だけのところに南朝年号も併記するなら有益だと思うのですが、片方を消してしまうのはいただけません。プロジェクトとしてのルールは私も知りませんが、南朝正統論で固めるルールはさすがにないでしょう。ご存じの人がいれば教えていただきたいですが、今まで議論になったことがない可能性もあります。Harkichiさんに呼びかけて話を聞いてみましょう。--Kinori会話2014年1月24日 (金) 01:09 (UTC)[返信]
あまり守られていませんが、Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間では原則として西暦を先に表記し、和暦を併記することが可能です。Wikipedia‐ノート:表記ガイド/過去ログ7#西暦と和暦を併記する際の順序についてで、私が『足利尊氏では征夷大将軍に任じられた年を「暦応元年/延元3年(1338年)」と記述しているが、南朝での「1338年(延元3年/暦応元年)」の方がすっきりしている。また、その他の暦を優先する場合は、この例のように北朝の元号と南朝の元号の優先順位が大きな問題になる。西暦を優先した場合もその問題は残るが、重要性は低くなる。』とコメントしたことに対して、年号を併記することについては特にコメントがありませんでした。件のユーザの編集については、北朝の後円融天皇の在位が「永徳2年/弘和2年4月11日(1382年5月24日) -」となっていたものを南朝年号だけに置き換えるなど、意味がないどころか有害なものがあります。南朝側のイベントと北朝側のイベントを切り分けて、該当側の年号だけにするのであればまだわからなくはないですが。--アルビレオ会話2014年1月24日 (金) 01:54 (UTC)[返信]
反応ありがとうございます。Kinoriさんにおかれましては、Harkichiさんの会話ページに書き込みいただき誠にありがとうございます。反応される方に予断を与えないため前回の書き込みでは詳しいことは記しませんでした。ご了解ください。さて、本件、南朝が使用した年号と北朝が使用した年号の併記についてに話を絞りたいと思います。北朝・南朝いずれか一方の年号のみに統一すること、順序を固定することは南朝または北朝の正統性に与することにつながり、中立的観点に反する可能性があるものと考えます(後者は微妙ですが)。とはいうものの、正統争いに明確な立場を表していない人物については誤った印象を与える可能性がありどの順番にするか非常に困難な問題となります。もちろん、北朝側、南朝側の人物については特定の順序であっても中立的観点に反することにはならないと考えます。まずこれらの見解についてご意見をいただければと思います。 --kyube会話2014年1月24日 (金) 23:51 (UTC)[返信]
コメント 併記が適切と考えます。というのも、北朝と南朝、どちらが正当であるかという議論は学会において定説を持っていないように見えるからです。学界の定説が出ていない場合、Wikipediaの原則に従って、併記をするべきでしょう。順序についてはどちらでもよい、でもよいですが、もし合意できるならば元号を管轄する日本政府が南朝を正統としていることを論拠に、南朝を先にする形で統一することが可読性を損なわないのではないかと考えます。
一方で、今回の話からはやや外れますが、アルビレオさんの仰る西暦優先については、自分は反対です。これまでプロジェクト日本史内においては、慣行として旧暦の場合は元号を、新暦の場合は西暦を使ってきた経緯があります。もしこれを変えようとすると、全ての日付を新暦に換算しないと、実際の日を表さなくなります。これほどまでの記事の変更をしないといけない、西暦優先は行うべきとは思えません。むしろこれまでの慣行は別段の不都合があったものではないですし、可読性を損なうものでもないので、一次史料やそれに基づいて書かれた出典に合わせる意味で、こうした慣行をプロジェクト内における合意とするべきと考えます。--machine_gun会話2014年1月25日 (土) 19:31 (UTC)[返信]
コメント 私も元号については併記すべきかと思います。併記順については、政府が正統としているからというわけではなく、単純に現行の「南北朝」という表記の「南」「北」という順番に添って南朝の元号を先にもってくることが、どちらの元号かということも含め、判りやすいのではないでしょうか。西暦は後先どちらでも西暦ということははっきりしているので、どちらでも構わないとと思います。--ジャムリン会話2014年1月25日 (土) 21:30 (UTC)[返信]
コメント 西暦と和暦のどちらを先にするのかは、私の個人的な意見ではなく、ウィキペディア全体のガイドラインであるWikipedia:表記ガイドで規定されていることです。反対であればこのノートやプロジェクトではなく、Wikipedia‐ノート:表記ガイドでガイドラインの変更を提案してください。--アルビレオ会話2014年1月25日 (土) 22:38 (UTC)[返信]
コメント そのWikipedia:表記ガイドでは、『ただし、このガイドラインはすべての記事に絶対に適用しなければならないものではありません。ここに掲載されている表記法と異なる表記を分野ごと、記事ごとに使用する場合、関連分野のウィキポータル・ウィキプロジェクトや、個別記事のノートで合意形成をし、合意事項をわかりやすい形でまとめておくとよいでしょう。』とと明記されています。自分は、日本史分野に関してはガイドラインと異なる表記方法をすべく、プロジェクト日本史内にて提案しております。この提案は先だっても申し上げた通り、これまで日本史分野において行われてきた慣行の追認であり、明治以前の一次史料は基本的に元号で書かれているという分野の特殊性を鑑みたものです。ですので、ガイドラインの変更を求めるものでもなく、これまでのガイドラインに沿ったものであり、Wikipedia‐ノート:表記ガイドにおける議論は必要ないと考えます。--machine_gun会話2014年1月26日 (日) 03:05 (UTC)[返信]
インデント戻します。普段はあまり議論には参加しないのですが、これから加筆を進める予定の記事に大きな影響が出るので書き込ませていただきます。私がこれから加筆予定の記事は鎌倉~南北朝時代の記事で、南北朝時代はそのほとんどが北朝に関する事項となります。また記事内で紹介する出来事の中には、月日まではっきりと特定できない事項もあるので、北朝年号/南朝年号(西暦)というように記入していく予定にしていました。西暦(南朝年号/北朝年号)という原則に反対するつもりはないのですが、あまり杓子定規に運用されてしまうと正直やりにくくなると思い、確認の意味を含め書き込ませていただきました。--のりまき会話2014年1月25日 (土) 23:27 (UTC)[返信]
コメント ちょっとよくわからないので、のりまきさんの問題認識を確認させて頂きたく思います。のりまきさんの考えられている問題点とは、西暦を必ず併記しないといけない点なのか、北朝に関する記事を執筆する上で、南朝/北朝に固定される点なのかどちらでしょうか?--machine_gun会話2014年1月26日 (日) 03:05 (UTC)[返信]
西暦の併記については問題にするつもりはありません。ただ、月日まで特定できない事項を多く含む明治改暦以前の日本の事物についての記事の場合、正月にずれがある日本の年号と西暦はどうしてもきちんとした対応関係にはならないため、やむなく和暦に西暦併記としたいと考えています。私の場合これまで執筆、加筆を行った日本史関連の記事でも同様の扱いをしています。あと私の加筆予定の記事は、こと南北朝時代に関しては北朝の宮廷の、北朝の宮廷による、北朝の宮廷のための文芸活動です。北朝宮廷内の動きに止まったことが大きな特徴とされる事物を扱う記事において、年号を南朝/北朝と記入するのはいかにも収まりが悪いです。しかも記事内で北朝の治天の君である、光厳院院宣などについても触れる可能性が高く、院宣を出した北朝側の年号ではなく、南朝の年号を主とするのはいかがなものでしょうか?つまり和暦に西暦併記を認めていただけるのでしたら西暦併記については問題とはせず、南朝/北朝に固定される点については反対するというのが私の意見になります。--のりまき会話2014年1月26日 (日) 03:29 (UTC)[返信]
改めて参考文献を数冊パラパラめくってみますと、その多くが北朝年号(西暦)という表記になっていて、南朝年号は併記すらされていません。記事内で南朝について少しは触れる予定もあるため、私はあくまで年号は北朝/南朝の併記で行いたいと考えていますが、ご参考までに追記いたします。--のりまき会話2014年1月26日 (日) 03:47 (UTC)[返信]
コメント まず前半、和暦を主とし西暦を併記とする案については上述の通り、全く同意いたします。
次いで後半部分ですが、確かに北朝のみの記事で南朝の元号を主体にするのは不自然というのは理解できます。一方で、いくつかの記事を読み比べた時、南朝の記事では南朝/北朝表記、北朝の記事では北朝/南朝表記、となっていては、読者が読みにくいのではないかという危惧があります。また、もっと言えば南朝も北朝も登場する記事で、記事中に南朝/北朝表記と北朝/南朝表記が混在していたら読みにくいどころの話ではありません。。これらの事態を回避する為に、出来れば基本的に南朝/北朝表記を原則(もちろん原則ですから、上記のような読みやすさを考えても北朝/南朝表記にする特別の事情があり、当該記事のノートで合意できれば北朝/南朝表記をしても問題ないでしょう)とした方がよいと考えておりますし、最低でも記事中に二つの表記が混在した場合には南朝/北朝表記を原則とする、というような合意形成をしておいた方が後々混乱が起きないのではないかと考えております。--machine_gun会話2014年1月26日 (日) 05:08 (UTC)[返信]
基本的には当該記事は、とりあえず予定通り北朝年号/南朝年号(西暦)で書き進めていきます。私が取り組んだ記事の例でいえば小笠原諸島の自然のように、南北朝時代は北朝年号/南朝年号(西暦)と年号表記を行う旨、記入についての注意書きを記事冒頭に表記したいと思います。また記事加筆が進行したらご相談させて頂くかも知れません、どうもありがとうございました。--のりまき会話2014年1月26日 (日) 05:27 (UTC)[返信]

コメント 今更ですがコメントを。西暦と和暦の併記はガイドライン上必須でしょう。順序はのりまきさんのおっしゃるとおり明治改暦前の場合は和暦が先の方がよいと思います。南北朝に関しては、現在の日本史学では通常併記しているので、併記が原則として、その順序は北朝関連の記事なら北南の順、南朝関連の記事なら南北の順、中立的記事なら、まあ南北なのかなあといったところです。ただ、現在の日本政府は南朝正当論のまま慣例で南朝歴代を正統としていますが、当時の政府は(明治帝直裁までは)北朝正統論だったので、当時の考えを重んじるのも一つの考え方でしょう。併記さえしていれば無理に統一せずともよいようにも思います。--ろう(Law soma) 2014年1月27日 (月) 00:39 (UTC)[返信]

コメント 『当時の考えを重んじる』と仰いますが、ろうさんの仰る『当時』とは何時のことを指すのか、という点に疑問を覚えます。南北朝時代を当時とするなら、当然ながら当時は北朝は北朝正統論、南朝は南朝正統論だったわけで、南北朝合一後の室町時代から江戸時代にかけてを当時とするなら、なぜ明治以後は当時に含まれないが、江戸時代以前は当時に含まれる、とされたのでしょうか?
自分としては南朝正統論に拘るつもりはありませんが、可読性の観点から最低限同一記事中で南北の順序を統一した方がよいと考えております。そうした非統一の記事が生じた場合に備えてPJで原則としてどちらかを先とする、と決めておいた方が、各記事で無用の議論を呼ばないように考えておりますし、その観点から、元号の現在の管理者が正しいとしている方を先にしておいたらいいのではないか、と思っている次第です。--machine_gun会話2014年1月29日 (水) 16:39 (UTC)[返信]
コメント はい。ですから私見では「中立的記事なら、まあ南北なのかなあといったところ」なのです。「当時」については南北朝合一時の朝廷の見解を指して用いております。括弧で括った部分は、皇室自体が明治帝直裁までは北朝正統論だったという余談です。ニュアンスとしては私見では南北の順、されど北南の順も一理ある。コンセンサスが得られないようであれば無理はせずとも良い、といった感じです。--ろう(Law soma) 2014年1月30日 (木) 00:18 (UTC)[返信]

コメント ここまででざっと考えが出そろったようなので纏めますが、西暦と和暦の問題については明治以前の日本史分野に限り、和暦を旧暦で表記し、それに西暦を新暦で併記でするという慣行を認める(唯一反対の意見を述べていらっしゃったアルビレオさんもガイドラインがそうなっている、という点を重視されていたもので、新たな合意が出来た場合については言及されていない)こと、及び南朝と北朝の元号の先後については、北朝を主体とする記事については北朝を先、南朝を主体とする記事については南朝を先とすることは大多数の意見であるように見受けられます。一方で南北朝の元号が入り交じる記事については、南朝が元号を管理する日本政府が正しいと認めているのでこれを先とするのをよしとするものと、当時は北朝正統だったので北朝を先にするのをよしとするもの、そしてそもそも統一しなくてもよいとする意見があるように思います。

とりあえず前者については特段の反対意見もないようですし、一度合意を図った上で、後者、即ち南北朝が入り交じる記事で統一するかしないか、統一するならばどちらを先とするのかに論点を絞っていきたいと思います。特に前者については反対意見がなければ1週間を目処に合意とさせて頂きたいのですが、前者、後者ともにご意見のほどをお願い致します。--machine_gun会話2014年1月29日 (水) 16:39 (UTC)[返信]

私も北朝のことは北朝年号、南朝のことは南朝年号という方式に賛成します。そして、両方に属したものの扱いと同時に、両方に属さないものについても考えなければならないと思います。経済や文化に関する事柄です。その場合に南朝を優先としますと、南朝が逼塞状態になる時代後半で違和感が広がってきます。この欠点を解決するために、記述の元となる史料の年号に従うという基準を、中間にはさむことを提案します。
machine_gunさんの提案と組み合わせるなら、
  1. .主体とする王朝
  2. .史料
  3. .南朝
という優先順位です。例えば南朝の人物の活動を北朝側の史料によって書くときには、その史料に北朝年号があっても南朝年号を先にする。政治と無縁な経済文化について書くときには、基本的に史料に従い、南北両方の史料があるならば、南朝年号を先にする。南北間の交渉・合戦については、北朝の人物記事等の中なら北朝年号、そうでなければ南朝年号を先にする。といったふうに適用します。
もちろんこれは、元となる史料を知らなければ年号を書けないというのではありません。たいていの場合、ウィキペディアでことさら史料主義を言わずとも、普通の本や論文を参考にして執筆していれば、その本や論文のほうに史料に即した年号が書かれていると思うのです。そしてたいていの執筆者はそれに従って書くでしょう。それはそのままでよいのです。あえて年号を変更しようとする人に対して、史料を根拠にもってくるように、と釘を差しておくための基準です。本を読まず、調べようともしない人が、「元となる史料が示されないかぎり南朝が優先になるのだ」と機械的に書き換えるのは避けたいです。--Kinori会話2014年1月30日 (木) 04:35 (UTC)[返信]
先立ってののりまきさんの『参考文献を数冊パラパラめくってみますと、その多くが北朝年号(西暦)という表記になっていて、南朝年号は併記すらされていません。』という発言があるように、主体となる王朝というのは、我々がそう思うから決めるものではなく、出典により決められるものであるのではないでしょうか。そうなると1と2に違いが見いだせないのですが…--machine_gun会話2014年2月3日 (月) 08:04 (UTC)[返信]
南朝の人物の活動が、敵である北朝側の史料によって知られる場合には、南朝が主体で出典は北朝になります。--Kinori会話2014年2月5日 (水) 00:30 (UTC)[返信]
コメント 事の発端になった問題編集をしたユーザ-が、自分のおこした記事の元号順を変更した時には「出典準拠」として元に戻してしまいましたが、wikipediaの歴史記事は歴史に明るい方達のみが閲覧するものではなく、むしろ始めの手がかりのようなものではないかと個人的には考えております。詳しくなければどちらがどちらの元号に相当するのかは、いちいち年号記事ページにリンクで飛ばなければ判別できないのではないかと思いますので、繰り返しになりますが定義文だけでも「南北朝」の南北(これは正統論関係のない東西南北的な並び順ではないかと)に添った方が閲覧者の立場からしても判りやすいのではないでしょうか。人物やイベントや典拠資料のスタンス主体にするのであれば、「年号(北)/年号(南)」のように判りやすい表記になるような表示方法があればと思います。そして「正統だから南朝が先に表記されている」とユーザーが偏った勘違いすることのないように、それぞれの元号記事や表記ガイドに明記した方が良いと思います。--ジャムリン会話2014年2月5日 (水) 04:37 (UTC)[返信]
私としてはたとえ定義文であっても、「南北」(もちろん「北南」も)に元号の並び順を決めてしまうことに改めて反対を表明します。繰り返しになりますが、私が加筆を予定している記事はほとんど北朝側の事情しか触れない内容であり、多くの参考文献は南朝の元号すら併記されていません。そのような内容の記事まで南朝年号を先に持ってくる必然性が私にはどうしても理解できません。--のりまき会話2014年2月5日 (水) 12:04 (UTC)[返信]
史料の量が北朝に多く、それゆえ書籍・論文でも北朝年号が多いという現実は無視できません。南北に沿った基準というのは、一見中立的そうなのですが、実際に展開すると違和感あるものになるのですよね。ウィキペディアの独自世界を作ることには慎重でなければならないと思います。しかし、どちらの年号かわかりにくいというジャムリンさんの指摘は、もっともと思いました。「年号(北)/年号(南)」の形に賛成したく思います。そうとう見栄えがわるくなりますが、これは正確な知識のために払ってよいコストだと思います。--Kinori会話2014年2月8日 (土) 00:21 (UTC)[返信]

吉田松陰[編集]

吉田松陰に、『明治維新という過ち ~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~ 』、「幕末維新史の定説を斬る」、「司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰、龍馬、晋作の実像」、「賊軍の昭和史」などの俗本を出版にし、「テロリスト」的な「松陰に感化された幕末志士たちの残虐行為」等を記すべきだという主張があります。このような、現代人が現代的な価値観に従って記した感想等を、歴史の人物伝に記すことについてコメントをいただけませんでしょうか。ノート:吉田松陰で議論していますが、歴史に知見のある方によるコメントをもらえますと助かります。--ぽてから会話2016年7月11日 (月) 06:59 (UTC)[返信]

一覧の一覧のメンテナンス[編集]

こんにちは。先日一覧の一覧を全面改訂した者です。ノート:一覧の一覧#プロジェクトやポータルでのノウハウを活かせないかという趣旨から、一覧の一覧#日本史の加筆・整理に関して、こちらのプロジェクトの皆様のご協力を仰ぎたいと思いまして、ご挨拶に伺いました。その旨に賛同して、加筆・整理もしくはレビューにご協力いただける方を募集します。よろしくお願い申し上げます。--Doraemonplus会話2017年4月8日 (土) 14:10 (UTC)[返信]

Wikipedia:査読依頼/寝殿造 20170621[編集]

Wikipedia:査読依頼/寝殿造 20170621にて、寝殿造の査読依頼が提出中です。関連すると思われるこちらのウィキプロジェクトへお知らせいたします。--Yapparina会話2017年6月24日 (土) 07:54 (UTC)[返信]

「Category:日本の城 (都道府県別)」のサブカテゴリ。[編集]

現在、愛知県(Category:岡崎市の城)、東京都(Category:八王子市の城)、長野県(Category:長野市の城)、広島県(Category:広島市の城)の4つが自治体単位で作成されています。

城ごとのサブカテゴリはCategory:大阪城Category:江戸城Category:姫路城があり、他にはアイヌ文化との関係でCategory:チャシがありますが、自治体単位でのサブカテゴリは認められるものでしょうか? それとも認めるべきではないものでしょうか? 過去ログをざっと眺めた限りではカテゴリの細分化の単位を何処までにするかは議論された形跡が無い様ですので。--KAMUI会話2017年8月20日 (日) 08:47 (UTC)[返信]

古墳の形状を示すテンプレートの廃止・削除を提案します。[編集]

{{日本の古墳}}とは別に{{円墳}}と{{前方後円墳}}があることに今しがた気がつきました。

「日本の古墳」テンプレート内の「形状」部分で、表示の前部に古墳形状を示すアイコンを挿入することを意図して作成された様ですが、何処かで議論などがあって作成されたものでもなさそうです(もしそうならば「円墳と前方後円墳だけ」にはならないでしょう)。それでなくても狭いテンプレートに画像を押し込むことはアクセシビリティの観点からも必要性が薄いのではないかと考えます。なお、このテンプレートは2009年1月と3月に利用者:VanishingDuckさんによって作成されましたが、ご本人は2009年9月20日を最後に活動が途切れており、なぜこの2つのみ作成されたのかは不明。また、この2つについては2016年12月までカテゴリもつけられないまま放置されていたようです。

この両テンプレートについては有用には思われないため、廃止と削除を提案します。なお、両テンプレートの使用は提案時点で円墳が40本、前方後円墳が110本ほどです。--KAMUI会話2018年4月2日 (月) 06:34 (UTC)[返信]

賛成 ご提案に異論はありません。--Saigen Jiro会話2018年4月2日 (月) 09:14 (UTC)[返信]
今のところお一人からしか反応がありませんが、あと1週間ほど様子を見た上で対処しようと考えています。--KAMUI会話2018年4月9日 (月) 12:29 (UTC)[返信]
賛成 KAMUIさんのご指摘どおり、アクセシビリティ的には難があり、それを補ってあまりあるような有用さも無いと考えます。--柒月例祭会話2018年4月9日 (月) 13:46 (UTC)[返信]
コメント 有用性が少ないという点で廃止には賛成します。ただ削除は反対はしませんが、過去の版閲覧時に何だろうという不要な疑問を持たせるのもどうかと思いますので削除票は留保します。--Camillu87会話2018年4月11日 (水) 02:21 (UTC)[返信]
テンプレートが削除された場合、赤リンクで Template:三角墳 ←こんな感じになります。もちろん、三角の古墳はありませんけどね :) --KAMUI会話2018年4月13日 (金) 08:14 (UTC)[返信]

(報告)廃止については概ね合意が得られたものとして、記事からの除去のためボット依頼を提出します。対処が遅れる様であれば手動での除去になるかも知れませんが。--KAMUI会話2018年4月16日 (月) 11:53 (UTC)[返信]

ボットによる除去作業が実施されましたのでWikipedia:削除依頼/廃止された古墳形状のテンプレートを提出しています。--KAMUI会話2018年4月29日 (日) 02:00 (UTC)[返信]
(報告)当該テンプレートは削除されました。議論へ参加してくださった皆様にはお礼申し上げます。--KAMUI会話2018年5月9日 (水) 02:01 (UTC)[返信]

退会について[編集]

こんにちは。ExpressGifu(元Tuzu)です。突然ですが、このプロジェクトから退くことはできますか?--ExpressGifu 2019年2月16日 (土) 12:05 (UTC)[返信]

浮世絵師のカテゴリに関する議論の告知[編集]

Category‐ノート:浮世絵師#下位カテゴリの改名・統合提案において、下位カテゴリの統廃合や整理運用を巡って1対1で意見が対立し、その間にもカテゴリの付け替えが進んでいます。ルール作りのため意見をお願いします。--エンタシス会話2019年5月9日 (木) 10:48 (UTC)[返信]

本件はプロジェクト‐ノート:美術へ移行しました。--エンタシス会話2019年6月15日 (土) 02:05 (UTC)[返信]

「令和」記述整理の提案のお知らせ[編集]

ノート:令和#記述が多すぎでは?にて、令和#時代の流れの記述を整理する提案を行っています。宜しければご参加ください。--Reiwa period会話2019年10月18日 (金) 12:42 (UTC)[返信]

お知らせ[編集]

皆さん編集お疲れ様です。さて、今回プロジェクト:日本の戦国時代で加筆大会を実施することになりました(詳細はプロジェクト:日本の戦国時代#加筆大会)。そこでプロジェクト:日本史に参加されている方の中で戦国時代に関連する事柄を編集される方は今回の加筆大会をもって是非、プロジェクト:日本の戦国時代にもご参加ください。また、加筆大会にもご参加ください。よろしくお願いいたします。--Tmv会話|投稿記録2019年11月24日 (日) 14:03 (UTC)[返信]

当PJ関連記事が良質な記事として選考中です (2020年1月期)[編集]

当プロジェクトに (直接・間接的に) 関連する以下の2 3記事が現在、良質な記事の選考中です。

昭和電力ノート / 履歴 / ログ / リンク元選考個別ページ

  • 【選考締切】: 2020年1月25日 (土) 00:04 (UTC) (※左記より最大4週間延長される場合があります)
  • 【選考エントリータイプ】: 月間強化記事賞からの自動推薦
  • 【過去の関連選考 1】: 北樺太石油 (2019年9月、選考通過) - 戦前・戦中の国策企業です
  • 【過去の関連選考 2】: 福山そごう (2019年10月、選考通過) - グループ経営で破たんした企業です
昭和電力株式会社は、昭和戦前期に存在した日本の電力会社である。当時の大手電力会社大同電力の傍系会社にあたる。1926年(昭和元年)設立。富山県から大阪府へ至る約300キロメートルの長距離送電線を保有し、北陸地方にある発電所の発生電力を大消費地である関西地方へと送電した。発電事業も兼営しており、北陸の庄川水系および九頭竜川水系にて電源開発を手がけた。1939年(昭和14年)に日本発送電へと合併され消滅した。…… — Template:強化記事 (oldid=75459022) より概説抜粋。

チェック 下関条約ノート / 履歴 / ログ / リンク元選考個別ページ

  • 【選考締切】: 2020年1月25日 (土) 00:04 (UTC) (※左記より最大4週間延長される場合があります)
  • 【選考エントリータイプ】: 月間強化記事賞からの自動推薦
  • 【過去の関連選考 1】: 北樺太石油 (2019年9月、選考通過) - 戦前・戦中の国策企業で、日露の利権交渉が含まれます
  • 【過去の関連選考 2】: 公海 (2019年1月、選考通過) - 条約関連の記述を一部含みます (法学で条約ピンポイントの記事はFAGAともにナシ)
下関条約は、日清戦争(1894年-1895年)で大日本帝国が清国に勝利したことにより、山口県下関市の料亭春帆楼での講和会議を経て、1895年(明治28年)4月17日(光緒21年3月23日)に調印された条約である。調印者は、日本側全権伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権李鴻章・李経方。正式には日清講和条約。前文および11か条からなり、付属議定書があり、解釈・批准等について規定している。…… — Template:強化記事 (oldid=75574076) より概説抜粋。
賛否投票だけでなく、査読コメントや修正案の提起などのご協力も歓迎します。時間が足りない場合は、査読・修正希望者が選考期間の延長を申請することもできます。選考ページに是非立ち寄ってみてください。
また、良質な記事選考の新規投票者を増やすための取り組みを「ノートページ」上で議論しています。選考投票に躊躇している方がいらっしゃいましたら、お声をお寄せ下さい。--ProfessorPine会話2020年1月11日 (土) 08:50 (UTC)[返信]
 感謝 お知らせ有難うございます。--Tmv会話|投稿記録2020年1月25日 (土) 08:40 (UTC)[返信]

1件追加: 桶狭間ノート / 履歴 / ログ / リンク元選考個別ページ

桶狭間の戦いで知られる地名であり歴史的な説明が充実しているほか、桶狭間では、現代の行政区画として交通や地理情報なども掲載されています。--ProfessorPine会話2020年1月26日 (日) 05:33 (UTC)[返信]

お知らせ(2回目)[編集]

皆さん編集お疲れさまです。こちらにて只今査読依頼を行っております。日本史に関連することなのでお知らせいたします。査読依頼に是非ご意見をお寄せ下さい。--Tmv会話|投稿記録2020年1月31日 (金) 07:30 (UTC)[返信]

琉球王国旗?[編集]

Bain Steinway氏の編集[4]により、右の「御紋旗」とされるものが「琉球王国の旗」として扱われているようですが、これには数多くの誤謬を含む可能性がありますので、諸兄にご検討いただきたく俎上にあげます。--Krkrkrme会話2019年11月5日 (火) 03:47 (UTC)[返信]

Commonsユーザ:圓周率がアップした「琉球國旗」
  • まず、Commonsユーザ:圓周率がコモンズにこの旗を「琉球國旗」と名付けてアップロードしており、その典拠はオンラインPDF[5](博物館紀要「沖縄県立博物館・美術館所蔵「琉球船の図」と関連資料」三枝大悟(2017))としています。
  • ですが同紀要によれば、同紀要のページ番号61の図をもとにして右旗画像を作成したと思われますが、このp.61の図自体がハワイ大学所蔵『万国舶旗図譜』からの引用と明記されています。また、オンラインpdfはモノクロであり、博物館紀要原本が色付きなのかは不詳です。
  • さらに同紀要によれば三枝氏自ら次のように、正しい琉球王家「御紋旗」であるかどうかについてすら疑問を呈しています。
御紋旗の多くが、白地に黒、もしくは紺地に白で描かれ、巴紋の上に三本の線を伴うのに対し、『万国舶旗図譜』で、これが白地に黒・青・赤で彩色され、三本の線が巴紋の下に配されている様子は独自であり、記録の精度に若干の疑問が残る。 — 三枝大悟
  • 琉球新報(喜納大作氏・歴史博物館学芸員による寄稿)でも、このような「旗」が王国時代に国旗として使われていたのか、そもそも国旗を使用する慣習はあったのかなど、多角的検討をもって批評しているようです とあるサイトより
  • 翻って、例えば李氏朝鮮でも朝鮮国王旗「太極八卦図」が代表的な旗として用いられていたり、新羅に至っては印象すら代表画像として用いられている以上、琉球王家の正統な「御紋旗」を琉球王国代表画像として用いられる事にはやぶさかでない事を申し添えておきます。
  • なお、英語版en:Ryukyu Kingdomには右画像が「Flag」として堂々と書かれていることに問題の根源があり、右画像のノートでも既にとある人が殴り込みを掛けているようですが、このひとはWikimediaからグローバルブロックされています。

--Krkrkrme会話2019年11月5日 (火) 03:47 (UTC)[返信]

Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/琉球の朝貢と冊封の歴史 20200221[編集]

本プロジェクトに関連する「琉球の朝貢と冊封の歴史」についての選考が、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/琉球の朝貢と冊封の歴史 20200221にて行われております。投票やコメントのご協力を頂ければ幸いです。--Yapparina会話2020年2月24日 (月) 04:24 (UTC)[返信]

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後醍醐天皇宸翰天長印信(ろう牋)ノート / 履歴 / ログ / リンク元選考個別ページ

  • 【選考締切】: 2020年4月24日 (金) 15:24 (UTC)(※左記より最大4週間延長される場合があります)
  • 【選考エントリータイプ】: 月間新記事賞からの自動推薦
  • 【主筆者】: @Senuさん作成
後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』は、南北朝時代後醍醐天皇が筆写し、その護持僧の文観房弘真が料紙装飾・奥書した、真言宗文書・書作品密教美術。通称は『天長印信』。国宝醍醐寺蔵。「書の王者」宸翰に冠たる荘厳な書蹟。蠟牋金泥による料紙装飾も名高い。…… — Template:新しい記事 (oldid=76545102) より概説抜粋。
賛否投票だけでなく、査読コメントや修正案の提起などのご協力も歓迎します。時間が足りない場合は、査読・修正希望者が選考期間の延長を申請することもできます。選考ページに是非立ち寄ってみてください。--ポータル王朝の編集者会話 2020年4月11日 (土) 12:45 (UTC)[返信]