阿川甲一

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あがわ こういち

阿川 甲一
生誕 1870年11月
日本の旗 日本
山口藩美祢郡伊佐村
(現美祢市伊佐町)
死没 1948年6月(77歳没)
出身校 関西法律学校関西大学の前身)
和佛法律学校法政大学の前身)
職業 実業家
配偶者 阿川キミ
子供 庶子・阿川幸寿
長男・阿川弘之
長女・静栄(川上喜三の妻)
親戚 孫・阿川尚之
孫・阿川佐和子
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阿川 甲一(あがわ こういち、1870年明治3年)11月 - 1948年昭和23年)6月)は、日本実業家。満洲阿川組社長、長春倉庫運輸株式会社社長、長春日本人商工会議所会頭などを務めた[1]

作家阿川弘之の父で、法学者阿川尚之エッセイスト阿川佐和子の祖父。

経歴[編集]

1870年山口県美祢郡伊佐村(現美祢市伊佐町)の農家に生まれた。父は阿川利七(阿川家の7代目)、母はのし[2]。阿川家について阿川弘之によると「我が阿川家からは、朱子学蘭学を学んだ者も、勤皇の志士も、郷土史に名を残すほどの篤農家も出てゐないらしい。要するに代々平々凡々たる中くらゐの自作農であつたと思はれる」という[2]。甲一は8代目を継ぐ立場だったが、数え20歳になって早々、代言人(いまの弁護士)を志して郷里をはなれ、家督を甥の太七に譲る[2]

1891年関西法律学校関西大学の前身)卒業[3]1893年和佛法律学校法政大学の前身)卒業[3]。帝国議会開会中、東京通信社社員となり、議事報告に従事する[3]ウラジオストックへ渡って露語を研究する[4]

1894年シベリアで鉄道建設工事を請負う[5]1897年に鉄道建設作業が終わり、ハバロフスクに移り住む[6]ドイツ人商人ゲーツマンに見込まれ、食料雑貨毛皮販売ゲーツマン商会の会計事務を取扱う[6]。月給75ルーブル番頭の地位を得る[6]

1899年にはゲーツマン商会を辞し、満州へ入ってハルビンに居を定め、写真店を開業する[7]1900年東清鉄道ロシア人技師長と契約を交して日本人の石工を提供し、松花江に架る鉄橋の礎石建設工事を請負う[7]。在留日本人惣代、民会長の役に就く[8]

1901年、帰朝[8]。8年に及んだ大陸生活を一旦打ち切って大阪へ帰る[8]1904年には日露戦争が勃発し、文官通訳官として満州の戦線へ出る[9]。戦後、長春に土木建築請負業阿川組[10] を設立。

1920年、満州での事業を支配人にまかせて引退する[11]。満州時代の友人が「酒が佳くて魚は新鮮、野菜が豊富、隠居暮しには最適の城下町[11]」と広島転住を勧めるので、大阪の家をたたみ広島へ居を移す。

家族・親族[編集]

阿川家[編集]

山口県美祢市伊佐町、広島県広島市中区白島九軒町神奈川県横浜市東京都

  • 妻・キミ大阪府、刀剣・骨董商・石井定次郎の娘)
  • 庶子・幸寿(満鉄社員、満州国官吏)
  • 長男・弘之(作家)
  • 長女・静栄岐阜県、満鉄社員川上喜三に嫁す)
  • 次女・公子
  • 孫・尚之(弘之の長男)
  • 孫・佐和子(弘之の長女)
    • 佐和子の下にもう2人の孫(次男と三男。それぞれ一般人)がいる。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『亡き母や』187頁
  2. ^ a b c 『亡き母や』 138頁
  3. ^ a b c 『亡き母や』 142頁
  4. ^ 『亡き母や』 146頁
  5. ^ 『亡き母や』 148頁
  6. ^ a b c 『亡き母や』 150頁
  7. ^ a b 『亡き母や』 152頁
  8. ^ a b c 『亡き母や』 153頁
  9. ^ 身分は将校待遇の文官通訳官、秋山好古将軍麾下の秋山支隊騎兵第十四聯隊所属(『亡き母や』155頁)
  10. ^ 初期の名称阿川工程局、のち改名して阿川洋行
  11. ^ a b 『亡き母や』 11頁