長尾三郎

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長尾 三郎 Portal:陸上競技
選手情報
国籍 日本の旗 日本
種目 やり投
大学 関西大学
生年月日 (1910-08-25) 1910年8月25日
生誕地 大阪府大阪市
没年月日 (1943-12-13) 1943年12月13日(33歳没)
死没地 ニューギニア島
自己ベスト
やり投 68.59m(1934年)
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長尾 三郎(ながお さぶろう、1910年(明治43年)8月25日 - 1943年(昭和18年)12月13日[1][注 1])は、日本の陸上競技やり投)選手[1][2]。1934年より1958年まで、やり投の日本記録保持者であった。第二次世界大戦で戦死[3]

生涯[編集]

大阪市生まれ[1]。1929年(昭和4年)、関西大学予科に入学[1]中学在学中に始めたやり投を見込んだ関西大学陸上部関係者に説得されたもので[1]、陸上界のホープとして注目を集めた[1]。1932年(昭和7年)、関西大学法文学部法律学科に進学[1]1932年ロサンゼルスオリンピック日本代表として選ばれた[1]。この年6月には61.27mの記録を出し[1]期待も高まったが、オリンピックでは表彰台に上がることがかなわず10位となった[1]

1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけ、日本陸上競技選手権大会でやり投3連覇[4]。1934年(昭和9年)4月22日[5]、第1回近畿一般対学生対抗競技大会(甲子園競技場)で68.59mの日本新記録を樹立した[1][5]。この記録は1958年に三木孝志が69.50mを投げるまで、約25年間破られなかった[5]。国際大会では1934年(昭和9年)5月に第10回極東大会マニラ)に出場、62.44mを投げた[1]ほか、欧州に遠征して国際学生大会(ユニバーシアードの前身)に参加した[1]

1936年(昭和11年)、関西大学を卒業[1]1936年ベルリンオリンピック日本代表にも選ばれたが、ドイツに向かう途中で病床に就き、大会を棄権した[1]

第20師団朝鮮歩兵第78連隊陸軍伍長として[6]ニューギニア方面に出征[1]。1943年(昭和18年)12月13日に戦死[注 2]した[1]ニューギニアの戦い)。33歳没[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「「戦没オリンピアン」をめぐる調査と課題 ―広島県出身選手を事例に―」9-10頁では1943年4月没。
  2. ^ 「「戦没オリンピアン」をめぐる調査と課題 ―広島県出身選手を事例に―」9-10頁では戦病死。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 長尾三郎”. 関西大学年史編纂室. 2020-1-4閲覧。
  2. ^ Saburo Nagao Olympic Results”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月16日閲覧。
  3. ^ Olympians Who Were Killed or Missing in Action or Died as a Result of War”. Sports Reference LLC. 2020年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月16日閲覧。
  4. ^ 男子やり投 過去の優勝者・記録”. 日本陸上競技連盟. 2019年10月10日閲覧。
  5. ^ a b c 日本学生記録の変遷 男子やり投”. 日本学生陸上競技連合. 2019年10月10日閲覧。
  6. ^ 曾根 2020, 9-10頁.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

  • 谷口睦生 - 同じ関西大学陸上部所属で、ベルリンオリンピックに出場した選手。1943年に戦死。