金井ビル火災
金井ビル火災 | |
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現場 | 日本・川崎市駅前本町2-1 |
発生日 |
1966年1月9日 0:58ごろ |
類焼面積 | 691.5 m2 |
原因 | たばこの不始末[要出典] |
死者 | 12人 |
負傷者 | 14人 |
金井ビル火災(かないビルかさい)とは、1966年(昭和41年)1月9日未明に神奈川県川崎市本町の「金井ビル」で発生した雑居ビル火災である[1]。
死者12人、負傷者14人におよぶ被害を出した。
本件火災は、日本における雑居ビル火災としては初めての事例とされ、雑居ビルの概念を一般化するきっかけとなった。
金井ビル[編集]
金井ビルは、川崎市(現在の同市川崎区)駅前本町2に存在した[要出典]地下1階、地上6階建てのビル[1]で、1966年当時、地下が喫茶店と倉庫、1階がパチンコ店、2階が遊技場、3・4階がキャバレー(両階は部分的に吹き抜けになっており、螺旋階段で結ばれている)、5・6階が事務所や住宅など、屋上にはプレハブの住居が置かれていた[要出典]。このビルはコンクリート造[1]、ガラス張り、建築面積約200 m2というペンシルビルであり、当時乱立していた典型的な雑居ビルのひとつであった[要出典]。
火災[編集]
出火[編集]
0時58分頃、3階のキャバレー「ミス川崎」[要出典]から出火。火元は女子更衣室[1]の木製ロッカー内、原因はタバコの不始末、もしくは衣服に付着したタバコの火によるものと推定されている。木製ロッカーから起こった火は瞬く間に延焼、4階へと燃え広がっていった。その時、ビル内の全店は営業を終えていて客は居なかったが、新年会のために従業員14名が4階に、5階にはビル所有者の家族5名、6階には従業員11名、屋上のプレハブにはビル所有者の親戚4名の計34名が残っていた。出火後、4階の従業員が3階から立ち上る煙を発見し[要出典]、女子更衣室に駆けつけ消火器や消火栓による[要出典]初期消火を試みたが失敗し[1]、ビル内の人々への連絡と消防への通報をしないままビル外へと避難してしまった。煙は階段室を急激な勢いで駆け上がり、1人は逃げ切れたが、6階で12名が一酸化炭素中毒で亡くなった。所有者の長男と次男は、炎に追われるように屋上に逃げ、プレハブにいた親戚たちとビルの屋上に追い込まれた[要出典]。
救助[編集]
消防は初期情報から逃げ遅れなしと考えていたが、野次馬が屋上に人影を発見、所有者の長男・次男・親戚の7名が取り残されていることを知った。彼らを助けるため、はしご車のアームを伸ばしての救助を試みたが、はしごは12mまでで、高さ23mの場所にいる彼らのところに届かなかった。
川崎市消防局は苦肉の策として、隣のビルからナイロンロープを渡して7名を渡らせるという決断を行った。ただ、命綱を付けないこと、深夜で闇の中だったこと、年少者がいることも危険の度合いを増していた。しかし、消防隊の懸命の努力により危険を乗り越え、7名が渡り切り、ロープを使った救助に成功した。
火災後[編集]
この火災後、高層化するビルに対応するため、川崎市消防局に31m級のはしご車が配備され、全国の消防に先立って川崎市消防局に専任の「消防特別救助隊」が編成されることとなった。 なお、火災現場となった場所には現在同名のビルが建っている。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『なぜ、ひとのために命を賭けるのか-消防士の決断-』 中澤昭著、2004年、ISBN 4-421-00702-1
- 『環境・災害・事故の事典』 平野敏右、丸善株式会社、ISBN 4-621-04872-4
関連項目[編集]
- 雑居ビル火災
- 新宿歌舞伎町ビル火災(2001年9月1日、死者44名)
外部リンク[編集]
- 特異火災事例 金井ビル - 消防防災博物館