金丸筑前守
時代 | 戦国時代 |
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死没 | 元亀2年8月8日(1571年8月28日)? |
別名 | 虎義 |
官位 | 筑前守 |
主君 | 武田信虎 |
氏族 | 金丸氏 |
子 | 平三郎(昌直)、土屋昌続、秋山昌詮、金丸定光(助六郎)、土屋昌恒、金丸正直(土屋惣八?)、秋山親久(源三郎) |
金丸 筑前守(かねまる ちくぜんのかみ、生年不詳[1] - 元亀2年8月8日(1571年8月28日)?[1])は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。
武田信虎・信玄に仕え、軍中使番十二人のうちの一人。200騎の侍大将。武田信玄の傳役を務めたという。躑躅崎の城を預かり、伊那攻め、佐久攻略戦に参加。
諱は『甲斐国志』では「虎義」としているが、確実な史料からは確認されない。虎義の「虎」の字は信虎より賜ったものと思われる。
『甲斐国志』『甲陽軍鑑』によれば、筑前守の父は金丸忠経(若狭守)とされるが、両人は活動時期の重なる同世代の人物であることが指摘される[1]。 忠経(若狭守)は『甲斐国志』によれば天文5年(1536年)9月5日に死去したとしているが、それ以降の活動も見られることから誤りであることが指摘され、忠経・筑前守の父に相当する「金丸若狭守」が存在した可能性が考えられている[1]。
『甲陽軍鑑』によれば、筑前守は武田家の使番を務めたという[1]。永禄9年(1566年)8月晦日に、信玄側近の市川家光から甲府城下南部・一条小山に立地する一蓮寺内の軸屋敷跡の安堵を命じられている[1][2]。永禄10年(1567年)3月6日には武田家臣・真田幸綱(一徳斎幸隆)が上野国の白井城(群馬県渋川市)を攻略した際に、箕輪城(群馬県高崎市)に在番していた春日虎綱(高坂昌信)との談合を命じられている[3]。
元亀2年(1571年)8月8日に死去[1]。墓所は山梨県南アルプス市徳永の長盛院。法名は『甲斐国志』所収の長盛院に伝わる位牌によれば、「長盛院玉叟浄金庵」とされる[1]。『甲斐国志』では筑前守の没年を元亀3年(1572年)で、法名を「長守院大叟照公禅定門院」とする異説を紹介しこちらを妥当としているが、確定されていない[1]。
『甲斐国志』『甲陽軍鑑』によれば、筑前守の子息には金丸平三郎・土屋昌続・金丸平八郎・秋山昌詮・金丸助六郎・土屋昌恒・土屋惣八・秋山源三郎がいる[1]。
子孫の動向[編集]
筑前守の嫡男である平三郎は永禄3年(1560年)を終見史料とし、以降は足跡が途絶える[1]。『甲陽軍鑑』によれば平三郎は武田信廉の被官に殺害されたという[1]。金丸氏の家督は助六郎が継承し、天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際して死去している[4]。助六郎の子孫は結城秀康の家臣となっている[1]。
一方、筑前守の次男・昌続(昌次)は武田家の奥近習六人の一人となり、永禄4年(1561年)の川中島の戦い以降に土屋氏の名跡を継ぎ信玄の側近となる[5]。昌続は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死し、弟の昌恒が家督を継承した[5]。
筑前守の三男・昌詮は武田家の譜代家老・秋山虎繁(信友)の女婿となり秋山氏を継ぐが、天正7年(1579年)7月23日に病死する[6]。その後、筑前守の七男・源三郎(親久)が同じく虎繁の女婿となり、秋山氏を継承する[7]。源三郎は天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡の際に戦死しているが、『寛永諸家系図伝』では伊豆大平へ逃れた子孫がいたとする伝承を記している[6]。
娘も複数おり、『寛永諸家系図伝』に拠れば多田三八郎に嫁いだという。
他にも諏訪家重臣、小澤主善にも娘を嫁がせている。
脚注[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l m 丸島(2015)、p.263
- ^ 『一蓮寺文書』 - 1002
- ^ 『諸州古文書』 - 1054
- ^ 丸島(2015)、p.262
- ^ a b 平山(2008)、p.330
- ^ a b 丸島(2015)、p.20
- ^ 丸島(2015)、p.23