采女竹羅

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采女竹羅
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 持統天皇3年(689年)?
別名 竹良、筑羅、竺羅
官位 直大弐
主君 天武天皇
氏族 采女朝臣
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采女 竹羅(うねめ の つくら)は、飛鳥時代貴族。名は竹良筑羅竺羅とも表記される。、のち朝臣位階小錦下、のち直大肆、直大弐。

出自[編集]

采女氏(采女朝臣)は物部氏の一族で、采女の統轄にあたった伴造氏族。もと臣姓。『古事記』中巻には、邇藝速日命の子、宇麻志麻遅命(うましまじのみこと)が物部連・穂積臣・婇(うねめ)臣の祖であると記されており[1]、『先代旧事本紀』には「大水口宿禰命。穂積臣。采女臣等の祖」としている。『新撰姓氏録』「右京神別」天神には、「石上朝臣同祖、神饒速日命六世孫大水口宿禰之後也」とある。

経歴[編集]

『書紀』巻第二十九によると、天武天皇10年7月、遣新羅大使に任ぜられ、小使の当麻楯(たいま の たて)らと共に新羅に派遣された[2]。9月に拝朝し、出発の挨拶をした[3]。同じ日に佐伯広足(さえき の ひろたり)が遣高句麗使に任命され、同月に拝朝している。

その後、いつ新羅から帰国したのかは不明だが、同13年2月には、天武天皇の遷都構想に関連して、

三野王(みの の おほきみ)・小錦下(せうきんげ)采女臣筑羅(うねめ の おみ つくら)等を信濃に遣して、地形(ところのありかた)を看(み)しめたまふ。是の地に都つくらむとするか

とあり、信濃遷都の調査のために信濃国に派遣されたことがわかる。

この直前の記述では、同じ日に広瀬王(ひろせ の おおきみ)・大伴安麻呂(おおとも の やすまろ)及び判官・録事(ふびと)・陰陽師・工匠(たくみ)らが派遣され、畿内に都をつくるべき地を視察している[4]。閏4月に三野王(美努王)らは信濃国の図を進上しており[5]、翌年10月(685年)には、軽部足瀬高田新家(たかたのにいのみ)・荒田尾麻呂らは信濃に行宮を建造している。

(けだ)し、束間温湯(つかのまのゆ=浅間温泉または美ヶ原温泉に幸(いでま)さむと擬(おも)ほすか(おいでになろうとしたのであろうか)

とも記されている[6]

同13年(684年八色の姓の制定により、采女臣氏は同年11月に他の52氏と共に朝臣姓に改姓している[7]

翌年9月(685年)、宮処王・難波王・竹田王・三国友足・県犬養大伴大伴御行坂合部磐積多品治中臣大島と共に、天皇から自身の衣と袴とを下賜されている。天皇と博戯(双六などの賭け事)をして遊んだのちの話である[8]。翌日、皇太子以下諸王48人にの皮と山羊(やましし=かもしか)の皮が授けられている[9]

朱鳥元年9月9日(686年)、天皇は崩御され、殯の宮が建てられた。竹羅は内命婦(ひめまえつぎみ=5位(小錦)以上の官位を持つ婦人)の(しのびごと)をした[10]。この時の位階は直大肆。

寧楽遺文』下巻によると、持統天皇3年(689年)12月25日に「采女氏塋域碑」が建立されたという。碑には「飛鳥浄原大朝庭大弁官直大弐采女竹良卿」と記され、そこは形浦山地4000代(約8町、8ha)を造墓所として朝廷に請うた地で、他人がそこで木を切ったり、汚したりすることを禁じる、とある。この碑は河内国石川郡春日村帷子山(現在の大阪府南河内郡太子町)にあり、同村妙見寺に移されたというが、所在不明となっている。

脚注[編集]

  1. ^ 『古事記』神武天皇条
  2. ^ 『日本書紀』天武天皇10年7月4日条
  3. ^ 『日本書紀』天武天皇10年9月3日条
  4. ^ 『日本書紀』天武天皇13年2月28日条
  5. ^ 『日本書紀』天武天皇13年閏4月11日条
  6. ^ 『日本書紀』天武天皇14年10月10日条
  7. ^ 『日本書紀』天武天皇13年11月1日条
  8. ^ 『日本書紀』天武天皇14年9月18日条
  9. ^ 『日本書紀』天武天皇14年9月19日条
  10. ^ 『日本書紀』天武天皇 朱鳥元年9月27日条

参考文献[編集]