褚該

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褚 該(ちょ がい、生没年不詳)は、中国南北朝時代官僚医師は孝通。本貫河南郡陽翟県

経歴[編集]

南朝梁の鄱陽王中記室の褚義昌の子として生まれた。医術を得意として、当時に有名であった。梁に仕えて武陵王府参軍となり、武陵王蕭紀に従って成都に入った。承聖2年(553年)、蕭撝とともに西魏に降り、平東将軍・左銀青光禄大夫の位を受けた。後に驃騎将軍・右光禄大夫に転じた。北周武成元年(559年)、医正上士の位を受けた。許奭の死後、ますます重んじられるようになり、医師として姚僧垣に次ぐ評判を取った。天和元年(566年)、県伯下大夫に転じた。天和5年(570年)、車騎大将軍・儀同三司の位に進んだ。後に病没した。

子の褚士則も、医師となった。

伝記資料[編集]