蘇我田口川堀

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蘇我田口川堀
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
別名 蝙蝠
主君 孝徳天皇
氏族 蘇我田口
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蘇我 田口 川堀(そが の たぐち の かわほり)は、飛鳥時代貴族。名は蝙蝠とも表記される[1]

経歴[編集]

川堀は、『新撰姓氏録』に推古天皇の代の人物として見える田口氏の祖の蝙蝠のことで、蘇我馬子と同世代の人間である[2]

孝徳朝大化元年9月3日(645年)、古人皇子は蘇我田口川掘を中心として物部朴井椎子吉備笠垂倭漢文麻呂朴市秦田来津と共に謀叛を企てた[3]。ところが、9日後に吉備笠垂は中大兄皇子にこの企てを密告し(あるいは阿倍内麻呂蘇我倉山田石川麻呂の前で自首し)、中大兄は「兵若干」(いくさそこばく)を派遣して、古人らを討ち取ってしまった、あるいは11月30日に兵40人によって息子ともども斬殺され、妃や側室は自殺してしまった[4]

古人大兄皇子の与同者とされたもののうち、川堀を除く全員が、その後も官人として活動していることから、この事件は古人大兄皇子と蘇我氏を排斥することを目的としていたことがわかる[2]

川堀が「謀反」に参画したのは、蘇我氏系の長老として、蘇我倉山田石川麻呂(蘇我倉氏)が非蘇我氏系王族である中大兄皇子と結んで氏上の地位を継いだことに対する反発も手伝い、蘇我系王族の古人大兄皇子に期待するところがあったと考えられる[2]

なお、大化2年3月(646年)、天皇は東国国司に詔して、朝集使を集め、地方の政治の査定をすることになった。その中に

羽田臣(はたのおみ)・田口臣、二人並に過無し

とあり[5]、この田口臣は「蘇我田口筑紫」のことと推定されている[2]

また、大化5年(649年)に蘇我倉山田石川麻呂が蘇我日向の讒言により謀叛の疑いで自殺させられているが、この時、蘇我田口筑紫が捕らえられ、処刑されている。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 「蝙蝠」と書いて、「かわぼり」とも読む
  2. ^ a b c d 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)
  3. ^ 日本書紀大化元年9月3日条
  4. ^ 日本書紀』孝徳天皇大化元年9月12日条
  5. ^ 日本書紀大化2年3月2日条、3月19日条

参考資料[編集]