藤原長倫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 長倫
時代 鎌倉時代
生誕 承安3年(1173年
死没 不詳
官位 正三位式部権大輔
主君 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原光輔、母:不詳
兄弟 長衡長倫
不詳
養子:光兼基長
テンプレートを表示

藤原 長倫(ふじわら の ながとも)は、鎌倉時代公家藤原式家文章博士藤原光輔の次男。官位正三位式部権大輔

経歴[編集]

後鳥羽院政期初頭の正治元年(1199年文章得業生に補せられ、翌正治2年(1200年丹後掾に任ぜられる。建仁元年(1201年)正月に献策を行うと、3月に式部少丞に任ぜられ、建仁2年(1202年従五位下越前権守に叙任される。

承元3年(1209年)従五位上・民部少輔に叙任されると、建保4年(1216年)式部少輔と京官を務め、建保6年(1218年従四位下に昇叙された。承久元年(1219年)式部省の巡任を止められて治部大輔に遷るが、承久3年(1221年文章博士となる。同年に発生した承久の乱以降は貞応元年(1222年)従四位上、元仁元年(1224年正四位下と順調に昇進し、寛喜2年(1230年)式部権大輔に任ぜられた。

寛喜3年(1231年春宮・秀仁親王の東宮学士を兼ね、貞永元年(1232年)秀仁親王が即位(四条天皇)すると学士の功労により従三位に叙せられ、藤原式家の氏人としては平安時代中期の参議藤原忠文以来約280年ぶりに公卿の地位に昇った。天福元年(1233年)子息の光兼を大学頭に任じる代わりに式部権大輔を辞すが、延応元年(1239年正三位に至る。

仁治3年(1242年)7月27日出家。法名・澄阿[1]または証阿[2]

官歴[編集]

公卿補任』による。

系譜[編集]

尊卑分脈』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『公卿補任』
  2. ^ 『尊卑分脈』

参考文献[編集]