蕭緬

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蕭 緬(しょう べん、孝建2年(455年)- 永明9年5月30日[1]491年6月22日))は、南朝斉皇族。安陸昭王。景業

経歴[編集]

蕭道生の子として生まれた。容姿や挙措にすぐれた。の秘書郎を初任とした。邵陵王文学や中書郎をつとめた。建元元年(479年)、斉が建国されると、安陸侯に封じられた。太子中庶子に転じ、侍中の位を受けた。建元4年(482年)、武帝が即位すると、蕭緬は五兵尚書となり、前軍将軍の号を受けた。輔国将軍・呉郡太守として出向し、治績を挙げ、竟陵王蕭子良に高く評価された。

永明元年(483年)、持節・都督郢州司州之義陽諸軍事・冠軍将軍・郢州刺史に転じた。永明5年(487年)、建康に召還されて侍中となり、驍騎将軍の号を受けた。中領軍に転じた。永明6年(488年)、散騎常侍・太子詹事に転じた。会稽郡太守として出向した。永明8年(490年)、使持節・都督雍梁南北秦四州荊州之竟陵司州之隨郡諸軍事・左将軍・寧蛮校尉・雍州刺史に任じられた。寛容穏健な統治で知られた。

永明9年(491年)5月、死去した。侍中・衛将軍の位を追贈された。は昭侯といった。享年は37。

蕭緬は若いころから西昌侯蕭鸞と親しく、蕭鸞は蕭緬死去の当時は尚書右僕射兼衛尉であったが、衛尉の任を解くように上表し、私邸で哀悼を捧げようとしたが許されなかった。蕭鸞は蕭緬の霊前に立つごとに、慟哭して声にならなかったという。建武元年(494年)、明帝(蕭鸞)が即位すると、蕭緬は侍中・司徒・安陸王の位を追贈された。

子女[編集]

  • 蕭宝晊 - 後嗣、安陸王。中興2年(502年)に梁王蕭衍に叛いて殺害された。
  • 蕭宝覧 - 江陵公。永元元年(499年)に始安王に改封、中興2年(502年)に兄弟とともに殺害された。
  • 蕭宝宏 - 汝南公。建武3年(496年)に宵城公に改封、中興2年(502年)に兄たちとともに殺害された。

脚注[編集]

  1. ^ 『斉故安陸昭王碑文』による。

伝記資料[編集]