舩原三郎

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舩原三郎
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 弘長4年、あるいは文永元年 (1264年
死没 延元5年/興国元年(1340年
改名 波木井祐光、舩原三郎
別名 光経(通称)、孫三郎、(弥三郎)六郎四郎
幕府 鎌倉幕府
主君 北条時宗
氏族 波木井南部氏
父母 南部実長妙圓、出家後、日義尼?
兄弟 南部実継南部実氏三郎波木井長義
小笠原長経
宗経階等、弥三郎、彦四郎ら
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舩原 三郎(ふなはら さぶろう)は、鎌倉時代後期の御家人武雄舩ノ原領主

経歴[編集]

波木井実長の三男として甲斐国波木井(はきり)にて誕生した。当初は波木井祐光を名乗る。

弘安の役での元軍との戦いでは主に壱岐国での戦い、それと松浦湾の鷹島(現在長崎県松浦市鷹島町三里免)での戦いで元軍に勝利を得ている。役後、鎌倉幕府からの博多湾の警備のために御家人たちの関東への帰郷を認めなかったとあり、舩原三郎祐光は、第3回の元寇に備えて九州に駐屯し、幕府から現在の佐賀県武雄の一部の領地を与えられ、松浦湾今福志佐にも飛地を所有した。弘安4年(1281年)8月10日付の肥前国守護北条時定書下(松浦山代文書)に弘安の役(1281年)の合戦の時の参加御家人6名の名があり、「舩原三郎」の名が残されている。

弘安の役で活躍した、薩摩国の御家人・島津長久比志島時範松浦党肥前国の御家人・山代栄、舩原三郎らが奮戦し活躍した[1][2]。舩原三郎はこの時の活躍により、肥前守護・北条時定から書下を与えられている[3]

人物[編集]

父・実長は日蓮の有力壇越として知られており、文永の役文永11年(1274年))の年に真言宗の東寺流であった南部一族の菩提寺、大日山妙樂寺は、文永11年(1274年)延寿山妙樂寺と改号し日蓮宗に改宗している。祐光三郎は日蓮の「一谷入道御書」以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、日蓮はそのたびに掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経題目を唱えなければ、「壱岐対馬」のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり、国は滅びてしまうとも警告している。祐光(舩原三郎)は日蓮の教えに従い、鎌倉幕府御家人で若く、武道に長けていた祐光は自ら巨摩を離れて、九州の警護に当たる。

九州では舩原の由来は祐光は西谷、小田、舩原(現在の山梨県南巨摩郡身延町)の土地を領有しており、舩原殿と呼ばれていたことから、舩原三郎を名乗る。

系譜[編集]

系図[編集]

                        源頼義源義光源義清源清光加賀美遠光南部光行 
                                                                          ┃        
                                                                      南部実長    
                                                                ┏━━━━╋━━━━┳━━━━┓
                                                            南部実継  南部実氏   南部祐光  南部長義

 

脚注[編集]

  1. ^ 『薩摩比志島文書』比志島時範軍忠状案「件條、去年六月廿九日蒙古人之賊船數千余艘襲來壹岐嶋時、時範相具親類河田右衛門尉盛資、渡向彼嶋令防禦事、大炊亮殿御證状分明也、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号)
  2. ^ 『薩摩比志島文書』島津長久證状「當國御家人比志嶋五郎次郎時範令申□戦之間事、去年六月廿九日五郎次郎幷親類河田右衛門尉盛資相共、罷乗長久之乗船、渡壹岐嶋候事實正候、」(竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六一一号)
  3. ^ 『山代文書』肥前国守護北条時定書下「肥前國御家人山代又三郎栄申壹岐嶋合戦證人事、申状如此、子細見状、任見知實正、載起請文之詞、可被注申候、仍執達如件、 弘安五年九月廿五日 平(北条時定)(花押) 船原三郎殿 橘薩摩河上又次郎殿」(瀬野 精一郎編集『松浦党関係史料集〈第1〉』続群書類従完成会 1996年 百四十三号)