紀文利

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紀文利
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位下紀伊守
主君 朱雀天皇
氏族 紀氏
父母 父:紀淑光
兄弟 文煥、文利、文実、文幹、文慶、文相、文輔
特記
事項
子孫は細見大丞を名乗り、細見氏の祖となる。
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紀 文利(き の ふみとし)は、平安時代中期の貴族参議紀淑光の子。

経歴[編集]

康保3年(966年)に紀伊守として下向する。同行した甥の行義(兄文煥の子)は、在国中に第38代紀伊国造職の奉世の女を娶った縁で、天元年中(10世紀後葉)に紀伊国造職を譲られた。

官歴[編集]

系譜[編集]

尊卑分脈』による。

  • 父:紀淑光
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
    • 男子:紀忠道
    • 男子:紀致頼

子息の文道は細見大丞を名乗り、細見氏の祖となる。大丞の子孫の細見成信は、足利義満の重臣で丹波国に蟄居していた細川頼之にみいだされ、頼之に仕えるようになった。以後、頼之にしたがって功があり、兎原・多紀あわせて十六村を知行した。また、1576年、丹波に攻め込んだ明智光秀は黒井城まで迫ったが、「赤井の呼び込み戦法」に敗れて兵を引いた。このとき、草山砦(草山城・本郷城)に拠る細見将監信光(細見宗信とも)は、敗走路に位置する鼓峠において明智軍を撃破したという。

脚注[編集]

  1. ^ 『類聚符宣抄』第8[要文献特定詳細情報]
  2. ^ 『類聚符宣抄』第7[要文献特定詳細情報]

参考文献[編集]