米国大学日本校

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米国大学日本校(べいこくだいがくにほんこう)は、日本に設置されたアメリカの大学の分校[1]。「日本にいながらアメリカの大学に通える」、「歩いて行けるアメリカの大学」と一時はブームになった[2]1980年代から1990年代にかけて30から40ほどの大学が日本の教育市場に参入したが、その多くが撤退し、2009年には米国大学4校のみとなった[1]

定義[編集]

大半が日本の法令に基づかない教育施設であり、無認可校であった。従って法的な定義はない。米国大学日本校の広範な実態調査を行った鋤柄光明は、アメリカ大学日本校を『専ら日本人学生を対象に本校の教育カリキュラムの一部、もしくは本校への単位移籍が可能な教育課程、または本校への進学準備教育課程を提供している機関』と定義している[1]

概要[編集]

米国大学日本校は、英語研修課程、留学準備課程、学位課程を提供していたが[1]学校教育法上の大学ではなく、私塾と同じ扱いで[2]、卒業しても日本の大学卒業資格を得ることはできない[1]。1990年代に設置されていた学校の経営母体の法人格は営利を主目的とする株式会社組織が大半、非営利であっても社団法人に留まり、専修学校各種学校として学校法人格を持つものはわずかであった[1]。このため、卒業生は日本の大学に編入学する際に単位認定を受けられなかったり、不法就労を防ぐために行われた入国管理法の改正により、米国大学日本校に留学しようとする学生への学生ビザの発給を受けられなくなるなどの不利益があった[1][3]

大学の認可を受けていないため、文部省も実態を把握しておらず、看板倒れ、看板に偽りありでトラブルとなったケースもあった[4]

歴史[編集]

日本国内の米軍基地内にある日本校を除くと、1982年にテンプル大学が日本校を東京都港区芝に開設したのが最初である[1][2]。当初は留学準備課程である集中英語課程のみで発足した[1]日米貿易摩擦の不均衡を是正するため、1986年に日米貿易拡大促進委員会が日米の国会議員によって設置され[2]、対日強硬派のリチャード・ゲッパード民主党下院院内総務の主張により、アメリカ大学の日本校開設が受け入れられた[1]。委員会事務局がアメリカの諸大学に日本校設置について意向を尋ねたところ、151校が日本進出を希望した[1]

1987年2月、ボストン大学ジョージア工科大学ミシシッピ州立大学ジョン・F・ケネディ大学などアメリカ16大学及び5つの大学連合体による代表団が来日して日本各地を視察し、有力候補地を挙げた[5]

アメリカの大学を誘致することは、日本の大学を誘致する場合よりも短期間で設置できること、安価で設置できるという利点があった[6]

1990年に国土庁が調査したところ、33校があり、約1万人が在籍していた[3]

新潟県中条町のサザン・イリノイ・ユニバーシティ新潟校、秋田県雄和町のミネソタ州立大学機構秋田校は、自治体の誘致で誕生した[3]

日本校の多くが間違った理念で運営され、利益を優先する傾向があったことから、アメリカ大学の評判が低下しないよう、設置基準が検討され、1991年2月、在日米国大学協会が設置された[1]。1995年時点で、秋田、新潟、富山の学校は専修学校として県知事に認可されていた[4]。これらのうち、秋田と新潟の学校は就職率が90%を超えた[7]

2004年に文部科学省は制度改正を行い、海外大学日本校を大学として認可するよう、方針転換した[1]

閉鎖の要因[編集]

鳥井康照は、米国大学日本校の閉鎖の原因を次の7通りに分類している[6]

  1. 学生数の減少
  2. 学費の高さ
  3. 日本校の評判の低さ
  4. 学生の英語力の問題 日本の高校3年生の英語力がTOEFLで350~400点であるのに対して、コミュニティカレッジでも450点、テンプル大学ジャパンでは学部課程入学のために、525点を課していた。
  5. 設置形態の問題
  6. 大学にたいする考え方の違い
  7. 米国側からの契約解消通告

学校一覧[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 高等教育市場の直接投資”. 一橋大学国際・公共政策大学院 (2009年). 2015年11月3日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g [NEWSズームアップ] 米国大学日本校、相次ぐ閉校 私塾扱い、学生ソッポ 読売新聞 1993年2月17日 大阪夕刊3ページ
  3. ^ a b c d e f 米大学日本校 自治体の誘致も楽じゃない 活気喜ぶが財布悲鳴!? 読売新聞 1992年2月10日 東京朝刊11ページ
  4. ^ a b [あの言葉 戦後50年] 昭和50年代 米国大学日本校 読売新聞 1995年3月23日 東京朝刊17ページ
  5. ^ 米私立大分校のニッポン進出 負けられません、誘致まで 読売新聞 1987年3月27日 東京夕刊9ページ
  6. ^ a b 鳥井康照. “米国大学日本校の進出と撤退”. 国立教育政策研究所. 2015年11月3日閲覧。
  7. ^ a b 米大学日本校、秋田・新潟の2校健闘 就職率も90%超える(解説)読売新聞 1995年11月22日 東京朝刊16ページ
  8. ^ 塚原(2008) P.190
  9. ^ 吉崎 誠.「2. グローバル人材養成で注目される国際教養大の挑戦」. p.7. UEDレポート 大学の国際化とグローバル人材の育成 2013夏号. 日本開発構想研究所. 2013年. 2015年11月4日閲覧.
  10. ^ 米大学進出計画相次ぐ ユーリカ大学も東京へ 独自の教育方法で徹底学習(解説)1988年10月11日 東京朝刊9ページ
  11. ^ 英会話のラド・インターナショナルが自己破産申請”. 英語教育ニュース (2007年4月9日). 2010年6月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月3日閲覧。
  12. ^ 米中部州立8大学連合が新潟・中条町に分校 64年度開校めざし交渉へ 読売新聞 1987年7月18日 東京朝刊2ページ
  13. ^ SIU新潟校、歴史17年に幕 今年度で提携解消 留学の専門学校に 2004年9月8日 読売新聞 東京朝刊新潟北32ページ
  14. ^ 南イリノイ大学跡に高校 私学審答申 全寮制の「開志国際」2013年8月1日 東京朝刊新潟北29ページ
  15. ^ 米大学の日本校、誕生後12年 定着へ苦闘続く 18歳人口減り経営悪化 1994年5月29日 東京朝刊21ページ
  16. ^ 倒産速報 日本安全機材(株)”. 東京商工リサーチ (2006年2月1日). 2012年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月3日閲覧。
  17. ^ 米大学、日本校(福岡)との提携解除 本校への留学困難に 州補助金カットで 読売新聞 1991年11月21日 西部夕刊8ページ

関連項目[編集]