祇園橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
祇園橋
基本情報
日本の旗 日本
所在地 熊本県天草市
交差物件 町山口川
建設 1832年
座標 北緯32度27分23秒 東経130度11分17秒 / 北緯32.45639度 東経130.18806度 / 32.45639; 130.18806 (祇園橋)座標: 北緯32度27分23秒 東経130度11分17秒 / 北緯32.45639度 東経130.18806度 / 32.45639; 130.18806 (祇園橋)
構造諸元
形式 10径間桁橋構造
材料 砂岩
全長 28.6m
3.3m
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
テンプレートを表示
橋の位置
橋の位置
橋の位置

祇園橋(ぎおんばし)は、熊本県天草市町山口川に架かる石橋日本百名橋に選ばれた。

概要[編集]

正式名はないが、北詰めに祇園社があることから祇園(祇園)橋と呼ばれる。 この地方一帯で見られる石造アーチ橋ではなく、石造の板橋ともとれる桁橋構造をしている。石材は下浦産の砂岩を加工したものである。

歴史[編集]

町山口川は島原の乱で激戦地となったと観光案会板、パンフレット等にあるが歴史上、文献には一切の記録がなく、郷土史家は早くから否定的だった。 天草・島原の乱で天草四郎軍勢の戦闘記録報告や見聞録が1985年5月、苓北町富岡の旧家で発見された。東大史料編纂所・五野井隆史名誉教授が翌1986年11月、貴重な乱の資料としてマイクロフィルムに収めている。 この資料は乱勃発後、熊本藩や久留米藩などの徳川幕府方の各藩や、従軍していた鉄砲奉行の鈴木重成(後の天草代官)が、戦闘の状況報告を書状にして征討軍の総指揮官・板倉内膳正重昌や大坂城代、江戸にあてたものの写しで、94枚の古文書。幕府が保管していたものを書き写し、ある時期に、天領の天草に持ち込んだものと見られる。(熊本日日新聞1985年5月17日付)[1] それによると四郎軍は本渡町茂木根の海岸に上陸し、馬に乗って本渡を攻めるが途中、中村、今釜の地名は出てくるが、町山口川の地名は出てこない。むしろ広瀬川の小高い丘に富岡番台・三宅藤兵衛がこの地で激戦後、討ち死にし後、墓も作られている。上陸後、富岡を目指す四郎軍の軌跡と一致する。

郷土史家の鶴田文史(本名=八洲成)は「本渡合戦では、一揆勢の方が一方的な戦斗で勝利しているため、戦死者は数少なかったと考えられる。 諸記録には、富岡戦の場合の戦死人数は記してあるが、本渡のは記していないことからもそれを物語っている。 したがって、町山口川が一時、“血の川”となったという伝承があるがそれはあとから誇張して作ったものであろう。」という。[2]

東京出身の造船技師で詩人の橋本徳寿氏の詩「町山口川の流れせきとめし殉教者のむくろ数百千にして名をとゞめず」は地元の観光関係者からの聞き取りで作られたもので、しかもその詩碑は天草五橋開通当時に、観光振興のため氏の意思に関係なく作られたと『天草日記』(橋本徳寿著)に書かれている。[3]

1832年、町山口村の庄屋・大谷健之助が発起人、下浦村の石屋辰右衛門が棟梁となって造られ、1975年には熊本県の文化財に指定された。

1997年7月に祇園社と祇園橋の間にあった「南蛮えのき」が伐採され、同年12月、国の重要文化財に指定された。

交通アクセス[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「四郎は茂木根に上陸 苓北町の旧家に新資料 戦闘の模様つぶさに」熊本日日新聞1985年5月17日付。 キリシタン史研究家の鶴田倉造「新出・島原の乱関係資料(資料紹介)」『キリシタン文化研究会 会報』キリシタン文化研究会、1986年6月発行)にも発表されている。
  2. ^ 鶴田文史『天草の歴史文化遺産』天草文化出版社、1971年、85頁。
  3. ^ 橋本徳寿『天草日記』本渡諏訪神社

参考文献[編集]

  • 松村博『日本百名橋』鹿島出版会
  • 現地の紹介看板
  • 熊本日日新聞1985年5月17日付
  • 鶴田倉造「新出・島原の乱関係資料(資料紹介)」『キリシタン文化研究会 会報』キリシタン文化研究会、1986年6月発行
  • 鶴田文史『天草の歴史文化遺産』天草文化出版社、1971年
  • 橋本徳寿『天草日記』本渡諏訪神社

関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、祇園橋に関するカテゴリがあります。