湛増庸一
湛増 庸一(たんそう よういち、1886年(明治19年)4月17日[1] – 1941年(昭和16年)5月14日[1])は、日本の衆議院議員、教育者。
経歴[編集]
岡山県久米郡倭文西村(現在の美咲町)出身[1]。1904年(明治37年)、岡山県立第一中学校を卒業[1]。1908年(明治41年)に東京帝国大学農科大学を卒業[2]。その後、アメリカ合衆国に留学して、ミネソタ州立農科大学を卒業し、さらにノースダコタ大学に学んだ[1]。1912年(明治45年)に帰国した後は、岡山県農業試験場講師、山本農学校校長・山本実科高等女学校校長[注釈 1]などを務めた[1]。
1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たしたが、翌年に選挙違反で失職した[3]。1926年(大正15年)正八位返上を命じられ[4]、大礼記念章を褫奪された[5]。
1926年、日本農村協会を創設し専務理事となり[1]、また中国民報社常務理事を務めた[2]。その後、国民精神総動員連盟総務部長に就任した[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e f g h 遺徳顕彰録 pp.28-31 1942.
- ^ a b 衆議院議員名鑑 1962.
- ^ 『官報』第3974号、大正14年11月21日。
- ^ 官報 1926年7月5日 一三四頁
- ^ 官報 1926年7月7日 一八二頁
参考文献[編集]
- 大日本頌徳会編纂部『遺徳顕彰録 第三輯』大日本頌徳会、1942年。
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。