毛利就禎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利 就禎
時代 江戸時代中期
生誕 延享3年(1746年
死没 享和2年11月27日1802年12月21日
別名 通称:勝九郎、宮内、伊勢
幕府 江戸幕府
長州藩
氏族 阿川毛利家
父母 父:毛利広漢
正室:宍戸広周の娘
継室:藤木土佐の娘
継々室:堤代長の娘
養子:信任
テンプレートを表示

毛利 就禎(もうり なりさだ)は、長州藩一門家老である阿川毛利家の8代。

生涯[編集]

延享3年(1746年)、一門家老毛利広漢の長男として生まれる。宝暦4年(1754年)、広漢が藩主毛利重就と対立して処罰され、隠居したため家督を相続することとなる。元服して重就より偏諱を授かり就禎と名乗る。明和2年(1765年)、後潟で38町2反の干潟の開作(干拓)を行う。明和7年(1770年)1月、当職毛利広圓が没し、代わって当職(執政・国家老)となる。安永9年(1780年)、隠居して家督を養子の信任に譲る。享和2年(1802年)11月27日死去。享年57。

参考文献[編集]

  • 石川卓美著「防長歴史用語辞典」
  • 小川國治著 「毛利重就」