楠本高子

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くすもと たかこ

楠本 高子
1872年(数え21歳、満年齢20歳の時)に撮影[1]
生誕 タダ子
嘉永5年2月7日1852年2月26日
死没 1938年昭和13年)7月18日 (86歳没)
国籍 日本の旗 日本
別名 三瀬高子
山脇高子
山脇たか
配偶者 三瀬諸淵
山脇泰助(再婚)
子供 男子、後にイネの養子:楠本周三
男子:初、夭折
長女:滝、40歳頃死去
次女:タネ、米山家に嫁す
父:石井宗謙
母:楠本イネ
親戚 祖父:フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
叔父:アレクサンダー・フォン・シーボルト
叔父:ハインリヒ・フォン・シーボルト
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楠本 高子(くすもと たかこ、嘉永5年2月7日1852年2月26日) - 昭和13年(1938年7月18日)は、日本の女性。現在の長崎県長崎市出身。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの孫娘で、楠本イネの娘。結婚後の改姓により三瀬高子(みせ たかこ)、山脇高子(やまわき たかこ)、山脇たかとも呼ばれる。

概要[編集]

高子が後年書いた手記によると、高子はイネが、師、石井宗謙に強姦されて宿した娘であり(詳細は「楠本イネ」の項参照)、当初は天がただで授けたものであろう、というあきらめの境地から「タダ子」とよばれていた[2]

幼少期の初恋は檜野家の丹治太という名の藩士である。

1864年、13歳の時まで長崎の祖母・お滝の元で育つ。幼少時は三味線など芸事に熱心であり、医者を嗣ぐことを期待していたイネを嘆かせていたという。

1865年、母の師・二宮敬作の縁により宇和島藩奥女中として奉公を始める。

そして翌1866年(慶応2年)、三瀬諸淵(三瀬周三)と結婚する。三瀬はシーボルト門下の医者で、二宮敬作の甥に当たった。

1877年(明治10年)に夫・三瀬諸淵に先立たれた後、異母兄・石井信義の元で産婦人科を学んだ。

しかし、その中で医師・片桐重明に船中で強姦され[2]、男児(亡き夫三瀬周三にちなんで、周三と命名。後にイネの養子となり、楠本家を継ぐ)を産む事態となり、親子2代にわたって悲劇に見舞われた。医業の道は断念した。

失意の高子であったが、その後にかねてより高子に求婚していた医師・山脇泰助と再婚した。山脇との間に一男二女を授かるが、結婚7年目に山脇は病死した。

その後は叔父のハインリヒ・フォン・シーボルトの世話を受け、東京で母のイネと共に暮らした。以後は幼少時に熱心だった芸事の教授をして生計を立てていた。

親族[編集]

高子には2男2女がいる。最初の夫・三瀬諸淵との間に子はいなかった。

第一子の長男・楠本周三は、東京慈恵医院医学専門学校にて学び、医師となる。

再婚した山脇泰輔との間に、第二子にあたる次男・初(はじめ)(明治14年7月1日午後1時10分、生後8か月で夭折)、長女・滝(既婚、40歳頃死去)、次女・タネ(種、米山家に嫁ぐ、105歳にて永眠)がいる。

長女の滝の死について、楠本高子による『山脇タカ子談』よると「39カ40歳ノ頃死ニマシタ、気ガ狂イマシテ」と記されている。

タネの孫にサンチェス聖子、楠本周三の息子に楠本周篤、楠本周篤の妹の孫に堀内和一朗(医師、ファウストボール選手、メンサ会員)がいる。

伝記小説[編集]

  • 宇神幸男『幕末の女医楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』現代書館、2018年
  • 吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』新潮文庫(上下)、改版2009年。祖母・母3代の物語

その他[編集]

  • 2012年(平成24年)9月現在、本人の手記が公開されている[2]
  • 銀河鉄道999』のメーテルや『宇宙戦艦ヤマト』のスターシャを描いた松本零士は、楠本高子の肖像写真を見て「この女性こそ、自分がずっと思い描いていた女性だ!」と衝撃を受けた。
  • 日本での子孫は楠本家・堀内家(第一子楠本周三の系統)、米山家(第四子米山種の系統)など。
  • 資料については叔父ハインリヒ・フォン・シーボルトの子孫でシーボルト研究家の関口忠志を中心に設立された日本シーボルト協会、子孫及び研究者より資料を委託されたシーボルト記念館、稲の恩師で鳴滝塾生である二宮敬作の出身地愛媛県西予市の資料館が研究を進めている。
  • 評論家の羽仁説子は、晩年の高子に会って話を聞いている。当時、高子は次女の米山種のもとに同居していた、その都内の住まいを羽仁は訪ねている。その折の話をもとに、羽仁は「シーボルトの娘たち」を上梓した。平成に入ってから再刊された(新日本出版社)。

脚注[編集]

  1. ^ 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.204
  2. ^ a b c 松田誠. “「かつて慈恵に在学した興味ある人物 楠本周三」『高木兼寛の医学』東京慈恵会医科大学、2007年に記載の山脇タカ子の手記” (PDF). 東京慈恵会医科大学. 2016年1月21日閲覧。

外部リンク[編集]