松田盛秀
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文明16年(1484年)頃? |
死没 | 永禄3年(1560年)[1] |
改名 | 顕秀→盛秀 |
別名 | 左馬助、左衛門 |
戒名 | 光徳院殿盛秀守義日篤居士 |
官位 | 筑後守、尾張守 |
主君 | 北条早雲→氏綱→氏康 |
氏族 | 松田氏 |
父母 | 父:松田頼秀[異説][2] |
兄弟 | 盛秀、康定(頼貞)[3][異説][4] |
妻 | 北条為昌養女(北条綱成妹) |
子 | 憲秀、康定(康光)[5][異説][6]、御宿綱秀室 |
松田 盛秀(まつだ もりひで)は、戦国時代の武士。後北条氏の家臣。北条早雲(伊勢盛時)・氏綱・氏康の三代に仕えた。
略歴[編集]
松田頼秀の子として誕生。初名は上杉顕定から編諱を受け顕秀。後に最初の主君である伊勢盛時から偏諱(「盛」の1字)を受けて盛秀と改名した。
永正7年(1510年)には扇谷上杉と戦い、永正13年(1516年)は北条氏の先陣として三崎で戦い、大永4年(1524年)にも江戸城攻略の時に活躍した[8]。
小田原城の奉行と評定衆を務め、それとは別に天文24年(1555年)頃から鎌倉街道の要所であり、北条氏の直轄地である下総国・関宿の代官を兼務するなど、後に北条氏の重臣となる子・憲秀と同じように早くから重臣として政務に関与していたと思われる。
永禄元年(1558年)4月に古河公方・足利義氏が鶴岡八幡宮に参拝した後、小田原城内で招かれた北条氏康主催の宴会では終了の挨拶を宿老達の中で一番始めに行い[9] 、義氏に馬と太刀を贈呈している。永禄2年(1559年)の役帳では小田原衆の筆頭者が、憲秀になっている。翌 永禄3年(1560年)に死去した。
脚注[編集]
- ^ [1]松田家の歴史 P.55。
- ^ 備前浦上の一乱により弟康定と共に相模に来て頼秀の養子となった説がある[2]松田家の歴史 P.55。
- ^ 六郎左衛門、筑前守[3]。
- ^ 一部の系図には盛秀の次男・康定(康光)と記されている[4]。
- ^ [5]
- ^ 一部の系図には康隆[6]
- ^ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-289-6 P147-152.
- ^ [7]松田家の歴史 P.57。
- ^ 『鶴岡八幡宮社参記』。松田盛秀・憲秀父子の次に遠山綱景・笠原綱信・清水康英・石巻家貞が挨拶を述べている。(つまり彼らより松田親子の立場が上である事を物語っている。
出典[編集]
- 下山治久編『後北条氏家臣団人名辞典』( 東京堂出版、2006年)ISBN 4490106963