木村伊量

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木村 伊量
(きむら ただかず)
生誕 (1953-11-16) 1953年11月16日(70歳)
日本の旗 香川県高松市
教育 早稲田大学政治経済学部政治学科
国際医療福祉大学
職業 ジャーナリスト
政治部記者
活動期間 1976年 – 現在
代表経歴 Honorary Commander of the Most Excellent Order of the British Empire(2014年10月)
肩書き フリージャーナリスト
朝日新聞社元社長
テンプレートを表示

木村 伊量(きむら ただかず、1953年11月16日 - )は、日本の新聞記者ジャーナリスト朝日新聞社代表取締役社長

来歴[編集]

香川県高松市出身[1]。大分県立上野丘高等学校、香川県立高松高等学校を経て[2]、1976年3月、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。同年4月、朝日新聞社に入社。最初の赴任地は岐阜支局だった。名古屋社会部時代の1980年、衆院選をめぐり愛知県岡崎市で発生した大規模な選挙違反事件と汚職事件[3]を取材。翌1981年まで半年間、事件に関する計108回の連載記事をひとりで執筆した[4]

1982年、東京本社政治部へ異動。政治部記者として、首相官邸自民党、公明党、外務省などを担当。公明党首脳や、政界のドン金丸信・自民党幹事長らへの深い取材で知られた。1988年、西ドイツ長期取材。1993年、米コロンビア大学東アジア研究所研究員[5]、1994年、ワシントン特派員としてホワイトハウス国務省、大統領選挙を担当。

1997年に帰国し、政治部次長へ異動。1998年、社長秘書役[5]、2000年に論説委員(政治・外交・安全保障担当)。2002年の人事で政治部長に就任、2003年に編集局長補佐[5]。2005年、東京本社編集局長、2006年人事にて、ヨーロッパ総局長[6]帰国後、朝日新聞GLOBE初代編集長、東京本社ゼネラルマネージャー兼報道局長、2010年6月付け人事で、西部本社代表(役員待遇)、2011年6月、取締役(広告・企画事業担当)に就任。

2012年6月26日、並みいる上席役員をごぼう抜きにして朝日新聞社代表取締役社長に就任[7]秋山耿太郎から2代続けての政治部出身の社長だった。

社長就任にともなって、デジタル社会の深化をにらんだ構造改革の推進を提唱。村山社主家の保有株式の処理、業界トップのOB年金の削減、「メディアラボ」の創設など未来メディアプロジェクトへの取り組み、キャノンの御手洗冨士男社長とのトップセールスでデジタル印刷機の試験機導入をはかるなど、矢継ぎ早の改革策を打ち出し、強力なリーダーシップを発揮した。[クロスオーナーシップ]である、公益財団法人[朝日新聞文化財団]理事長、株式会社テレビ朝日]締役等兼務した。また、2013年度より朝日賞]考委員(委員長)を務めた。

 [ヘラトリ朝日]、ならびに紙ベースの英字新聞事業から撤退したのちも請負っていた[インターナショナル・ヘラルド・トリビューン]の発行を、同紙が2013年10月15日から[インターナショナル・ニューヨーク・タイムズ]に改称することを機に停止、[ジャパンタイムズ]]営業権譲渡した。

 2014年10月20日、2013年に大英博物館との協力関係を9年延長したことなど、長年にわたる日英文化交流への貢献を評価され、駐日英国大使館においてティム・ヒッチンズ大使により外国人に与えられる名誉「大英帝国勲章」「Honorary Commander of the Most Excellent Order of the British Empire」(Honorary CBE。大英帝国司令官クラス)が伝達される。


2014年11月14日、朝日新聞「吉田調書」誤報問題や、朝日新聞の慰安婦報道問題(従軍慰安婦問題)を巡る一連の「捏造」「誤報」の責任をとる形で、持田周三常務取締役・杉浦信之取締役とともに辞任を表明した。木村社長が引責辞任 後任に渡辺取締役 朝日新聞社(2014年11月14日時点のアーカイブ), 「改めて深くおわび申し上げます」 木村伊量社長(2014年11月14日時点のアーカイブ); 福地献一取締役は執行役員に降格、喜園尚史執行役員は執行役員を辞任。

 同年12月5日、臨時株主総会と臨時取締役会を開き、代表取締役社長の辞任決定

社長を辞任する際に、秋山前社長、渡辺雅隆次期社長から慣例に従って「特別顧問」への就任を懇請されたが、労働組合などの反発もあって固辞。12月の臨時株主総会でいっさいの役職を離れて社を去ることを表明した。
朝日新聞退社後、2016年には英国のノリッジにあるセインズベリー日本藝術文化研究所(水鳥真美所長)に招聘され、特別シニア・フェローに就任。ケンブリッジ大学、イーストアングリア大学での歴史シンポジウムで基調演説を行った。その後、ボストン滞在を経て2017年4月に国際医療福祉大学大学院特任教授として、2024年3月まで赤坂見附、成田公津の杜のキャンパス、乃木坂スクールなどで近現代文明論、人間学などを講じた。2017年より同大理事、評議員。退職後は「著述業」に専念し、歴史小説、コラムなどの著作に打ち込む。

 公益財団法人ジェスク音楽文化振興会評議員、公益財団法人フォーリン・プレスセンター理事、一般社団法人構想日本アドバイザー、香川県産業活性化アドバイザー。

 


主張[編集]

  • 政治部長時代に北朝鮮拉致問題を認めた際、朝鮮半島植民地支配を踏まえ拉致問題は棚上げし、日朝国交正常化を進めるよう署名記事で主張を提言した[8]
  • 2005年、東京本社編集局長時代に長野総局で起きた、朝日新聞の新党日本に関する捏造事件の責任を取り減給、更迭処分となった[9]
  • 主筆船橋洋一が主導した「ANY(エニー)プロジェクト」の一環として、不採算部門である朝日新聞出版を完全独立させ、「朝日新聞第二高級紙創刊プロジェクト」を立ち上げた。その際、元編集局長の外岡秀俊と共に木村も中心メンバーになった[10]。しかし、船橋と外岡が対立し外岡を外し計画は頓挫した結果、朝日新聞の中折りに週刊ではさむ「朝日新聞GLOBE」として創刊し、ロンドンから帰国した木村が初代編集長に就任した。
  • 「中央日報」によると、2014年10月に東京で開かれた韓日言論人フォーラムで、「韓国は文化交流の歴史の上では、日本の兄のようだ」と語った[11]

著書[編集]

  • 鈴木博之藤森照信隈研吾松葉一清 共著『奇想遺産Ⅱ-世界のとんでも建築物語-』新潮社、2008年10月。ISBN 978-4103055327 
  • 『私たちはどこから来たのか私たちは何者か私たちはどこへ行くのか 三酔人文明究極問答』ミネルヴァ書房、2021年 『遥かなるリコ』文芸社、2022年 『遠い波濤 忘じがたき日本人の肖像』ブイツーソリューション、2024年

脚注[編集]

  1. ^ 木村 伊量”. 国際医療福祉大学大学院. 2022年9月15日閲覧。
  2. ^ 木村伊量高松高校東京玉翠会
  3. ^ 『中日新聞』1980年8月23日付夕刊、D版、11面、「内田派違反捜査終わる 逮捕55人 黒い金4400万円 大半が県、市町議 自治組織悪用もくっきり」。
  4. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (1) ~ (108)」 『朝日新聞』1980年10月16日~1981年4月30日付朝刊、三河版西。
  5. ^ a b c 政治と金に関する新たなカルチャーをいかに構築するか 木村伊量氏 朝日新聞社編集局長補佐・政治部長 東京リーガルマインド
  6. ^ 財団法人日本総合研究所 第6回 日総研フォーラムのご案内(2016年3月4日時点のアーカイブ
  7. ^ 朝日新聞デジタル:朝日新聞社長に木村取締役 秋山社長は会長に(2012年7月18日時点のアーカイブ) - 2012年4月27日
  8. ^ 朝日新聞 2002年9月18日付 朝刊[要ページ番号]
  9. ^ 朝日記者が虚偽メモ、「新党」記事に…懲戒解雇(2014年9月12日時点のアーカイブ) 読売新聞 2005年8月30日1時10分
  10. ^ 「新聞没落」 週刊ダイヤモンド 2007年9月22日号[要ページ番号]
  11. ^ 「韓日関係、自尊心より尊敬を前面に出すべき」中央日報 2014年10月20日

関連項目[編集]

先代
秋山耿太郎
朝日新聞社社長
(2012年 - 2014年)
次代
渡辺雅隆