文虎

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文 虎(ぶん こ、生没年不詳)は、中国三国時代の人物。本貫豫州譙郡譙県[1]

生涯[編集]

父の文欽からに降伏。後に、魏に対して反乱した諸葛誕を救援するも仲違いとなり、魏の甘露3年(258年)正月、諸葛誕によって殺害される。

この時、文虎も兄の文鴦と共に従軍し、小城を守っていた。文欽の死を聞くと配下の兵を率いて駆けつけようとしたが、彼らはその指示に従わなかった。そのため、文鴦と文虎は身一つで城壁を乗り越え、魏の司馬昭の下へ帰順した。2人は罪を赦されて将軍となり、関内侯の爵位を賜った。また司馬昭の指示で「文欽の子ですら殺されないのだ!それ以外の者が(降伏しても)何を恐れることがある!」と呼びかけると、籠城する諸葛誕の軍勢には動揺が走った。

反乱の終結後、文鴦と文虎は牛車を支給され、文欽の遺体を祖先の墓まで運ぶことを赦された。文鴦はその後、西晋の時代まで事績が残るが、文虎の動向は定かではない。

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『三国志』魏書 毌丘倹伝注『魏書』によると、父の文欽は「譙郡の人」であり、また曹爽と同郷とされる。曹一族の本貫は沛国譙県(『三国志』魏書 武帝紀)。譙郡は後漢代に沛国から分置された。