後二子古墳

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後二子古墳

墳丘
(右に後円部・石室開口部、左奥に前方部)
所属 大室古墳群
所在地 群馬県前橋市西大室町2545
位置 北緯36度23分19.9秒 東経139度11分39.2秒 / 北緯36.388861度 東経139.194222度 / 36.388861; 139.194222座標: 北緯36度23分19.9秒 東経139度11分39.2秒 / 北緯36.388861度 東経139.194222度 / 36.388861; 139.194222
形状 前方後円墳
規模 墳丘長85m[1]、後円部径48m、高さ11m、前方部幅60m
埋葬施設 両袖式横穴式石室
出土品 円筒埴輪、須恵器、土師器、金銅製耳環、馬具、大刀
築造時期 6世紀後半
史跡 国の史跡「後二子古墳ならびに小古墳」に包含
地図
後二子古墳の位置(群馬県内)
後二子古墳
後二子古墳
群馬県内の位置
地図
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後二子古墳(うしろふたごこふん)は、群馬県前橋市西大室町にある古墳。形状は前方後円墳大室古墳群を構成する古墳の1つ。小二子古墳と合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「後二子古墳ならびに小古墳」)[2]

概要[編集]

大室古墳群の前方後円墳4基
古墳名 形状 規模 埋葬施設 築造時期
前二子古墳 前方後円墳 墳丘長94m 両袖式横穴式石室 6世紀初頭
中二子古墳 前方後円墳 墳丘長111m 横穴式石室? 6世紀前半
後二子古墳 前方後円墳 墳丘長85m 両袖式横穴式石室 6世紀後半
小二子古墳 前方後円墳 墳丘長38m 無袖式横穴式石室 6世紀後半

主軸を北東110°に向けた前方後円墳で墳丘は全長85メートルの2段構築となっている。墳丘の一部は地山を削り出して造成され、半地下式の石室を持つ。葺石は施されていない。墳丘の周囲は盾型のが巡らされ、堀を入れた長さは106メートルに達する[3]

後二子古墳は1段目を大きく造り、その上に小さな2段目が載る構造をしている。このような構造は吾妻古墳など主に6世紀の栃木県の古墳に見られ、「下野型古墳」等と呼ばれている。6世紀中頃の毛野地域では「下野型古墳」の築造が流行したようで、同じ古墳群内の小二子古墳と内堀1号墳も「下野型古墳」の特徴を備えている[3]

1878年(明治11年)3月の石室発見・開口の後、宮内庁に後二子古墳を御諸別王陵墓として認定する申請が出されたが、豊城入彦命の陵墓として申請していた前二子古墳同様認定はされなかった[3]

埋葬施設[編集]

石室俯瞰図
左から右に、羨道・玄室。
石室展開図

埋葬施設は半地下式の両袖型横穴式石室で、南に開口する。現状で全長は9メートルあるが、元は9.5メートルほどあったらしい。玄室は奥壁で高さ2.2メートル、幅2.7メートルである。墓道の先端には葬送儀礼に使われたと思われる柱穴がある[3]

石室入り口の前面、墓道とその両側のテラス面からは土師器(坏18、1、大1)、須恵器(高坏2、𤭯1)、小刀1、2が出土した。また煮炊きの後と思われる焼土が3カ所で確認され、石室の前で煮炊きを行う儀礼が行われていたと考えられる[3]

出土品[編集]

石室から出土した副葬品は、前二子古墳に比べ豊富ではなく、大刀、馬具、耳環、いくつかの土器が発見されたに過ぎない。墳頂と墳丘テラスから円筒埴輪が発掘され、400本ほどが樹立されていたとみられている[3]

後二子古墳の特徴的な出土品の一つに、の小像の付いた円筒埴輪があげられる。この円筒埴輪には猿の親子とそれを追う犬の土製品が付いているが、こうした小像付き円筒埴輪は本例を含め全国でも3例のみ、しかもその全てが群馬県で確認されている[3]

被葬者[編集]

石室からは被葬者のが3本発見され、鑑定の結果熟年女性のものであることが判明した。また明治に発掘された耳環は11点を数えるため、被葬者は少なくとも6人いたとみられている[3]

文化財[編集]

国の史跡[編集]

  • 後二子古墳ならびに小古墳 - 1927年(昭和2年)4月8日指定[4]

脚注[編集]

  1. ^ 前橋市教育委員会編「前橋市 大室古墳群 -前二子古墳・中二子古墳・後二子古墳・小二子古墳-」、2013年
  2. ^ 国指定文化財等データベース 文化庁
  3. ^ a b c d e f g h 前原豊 「巧みな石室づくりの後二子古墳」『東国大豪族の威勢・大室古墳群〔群馬〕』 (シリーズ「遺跡を学ぶ」063)、新泉社、2009年
  4. ^ 後二子古墳ならびに小古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]