庭田重定

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庭田 重定
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正5年(1577年
死没 元和6年7月29日1620年8月27日
戒名 信田院峯月良珍
官位 従三位前権中納言
主君 正親町天皇後陽成天皇後水尾天皇
氏族 庭田家
父母 父:庭田重具、母:常楽寺純恵
兄弟 重定具子、澄真、空順、永助
重秀佐々木野資敦
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庭田 重定(にわた しげさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿

生涯[編集]

庭田重具の子として天正5年(1577年)に生まれる。天正6年(1578年)、2歳で叙爵し、天正11年12月18日(1584年1月30日)には元服・昇殿。慶長17年(1612年)、36歳で参議に任じられ、公卿に列せられた。翌年には従三位となった。

元和6年(1620年)、44歳で薨去した。法名は信田院峯月良珍[1]

官歴[編集]

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『系図纂要』第八冊、宇多源氏一。また、『公卿補任』後水尾天皇元和六年条には「法名良珍。」とある。
  2. ^ 『公卿補任』後水尾天皇慶長廿年条。前参議の項に見えた「右近衛中将」は権中納言の項には無く、以降も見えないことからこの時辞したかまたは転任か。
  3. ^ 『系図纂要』第八冊、宇多源氏一。これによれば、澄真の母は重定・具子と同じで、空順・永助の母は「惟任日向守光秀女」であるという。
  4. ^ 『公卿補任』後光明天皇承応二年条。尻付には「母家女房。」とある。また、『系図纂要』第八冊、宇多源氏一には、「母家女」とある。

出典[編集]

  • 公卿補任』第三篇(『新訂増補国史大系』所収、吉川弘文館、1974年)
  • 系図纂要』第八冊(宝月圭吾・岩沢愿彦監修、名著出版、1974年)