平田達弘

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平田 達弘 / 平田 大江 (ひらた たつひろ / ひらた おおえ、文化10年〈1813年〉12月 - 慶応元年〈1865年〉年11月11日) は、対馬藩の家老。

生涯[編集]

天保二年出仕、十三年使者番として江戸に祗役し、嘉永二年対馬藩領たる肥前の田代役を命ぜられ、五年印判役を兼ねた。

文久元年露艦の対馬に停泊するや、子の主水と共に田代士民三百余人を率い、応援のため帰国した。故あって幽居、同三年正月赦免、五月京都において家老職を命ぜられ、主水を田代役とした。

元治元年藩主宗義達より上京を命ぜられ、途中湯田にて三条実美に謁し、ついで上京、七卿の帰洛と長州藩の雪冤に尽力したが目的を達しなかった。ついで勝井五八郎の田代に来て、帰藩して藩政改革の断行を請うや、大江はその軽挙を戒めたが、勝井は大浦教之助ら五十余人を捕えて誅戮した。大江は勝井の暴挙を聞いて驚き、正義を挽回しようとして、慶応元年五月六日主水と共に決死の士六十余人より成る尽義隊を率いて帰国、諸藩の志士もこれと前後して来島した。これより先、勝井は誅戮されたが、藩論一変して、同年十月十一日馬場先橋付近に斬られた。

関連項目[編集]

参考資料[編集]

  • 日本歴史学会『明治維新人名辞典 日本歴史学会編 吉川弘文館