崔勵

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崔 勵(さい れい、481年 - 528年)は、北魏官僚は彦徳。東清河郡鄃県の出身。本貫清河郡東武城県

経歴[編集]

崔光の長男として生まれた。秀才に挙げられ、中軍彭城王参軍・秘書郎中とされたが、父の崔光が著作の任にあることから、固辞して受けなかった。員外散騎侍郎を経て、太尉記室・散騎侍郎となったが、継母が死去したため、職を去って喪に服した。神亀年間、司空従事中郎に任じられた。521年正光2年)、中書侍郎に任じられた。領軍将軍元叉が明堂大将となると、崔勵はその下で長史をつとめた。従兄の崔鴻とともに名を知られた。523年(正光4年)10月、父の崔光の病床を見舞った孝明帝により征虜将軍・斉州刺史に任じられた。524年(正光5年)春、父を郷里に葬った。孝明帝は主書の張文伯を派遣して弔辞を述べさせた。525年孝昌元年)12月、太尉長史に任じられ、そのまま斉州大中正となり、父の平恩県侯の爵位を嗣いだ。528年建義元年)、河陰の変により殺害された。享年は48。侍中衛将軍儀同三司青州刺史の位を追贈された。

子女[編集]

  • 崔挹(後嗣。東魏武定末年に太尉となった。北斉が建てられると、爵位を降格された)
  • 崔損(儀同開府主簿)

伝記資料[編集]