岡村静彦

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岡村 静彦(おかむら しずひこ、1848年2月13日〈嘉永元年1月8日〉- 1926年大正15年〉7月1日[1])は、日本の陸軍軍人歩兵)。最終階級は陸軍中将位階および勲等、軍功は従三位勲二等功四級

生涯[編集]

長門国阿武郡萩城下(現在の山口県萩市)に長州藩士岡村丈平、母歌子の子として生まれる。幼名は省三。京都藩邸に駐在していた叔父の岡村熊七に学んだ。

文久3年攘夷警備のため、馬関に出張し馬関戦争に参戦。上陸戦で大いに奮戦し、その功により藩主である毛利敬親から賞典を授与された。 ついで川上弥一に従い、豊前国田の浦に渡り攘夷警備にあたった。元治元年、久坂玄瑞が同士を集め八幡隊を結成すると、これに加わり禁門の変に参戦した。御所柳馬場の鷹司邸付近で幕府軍と激戦したが、敗走し、命かながら帰藩した。一時病を患ったが、慶応2年、四境戦争が始まると豊前小倉に渡り石原町、呼野などを転戦し、香春を占領した。明治元年には禁闕守衛の任にあり幕兵と戦ったのち、公家中納言西園寺公望(後に首相)に従い丹波国丹後国但馬国因幡国など各地に出張し庶民の鎮撫に当たった。

明治2年に長州藩常備軍を編成すると、第1大隊3番中隊小隊長を命じられたが、兵の不満脱走により瓦壊した。脱走兵暴動(山口県脱退兵暴動事件)となると、1番中隊教導役を命じられ鎧峠、三田尻、江原峠、山口に転戦しこれを鎮圧した。明治3年10月藩を出て、陸軍に出仕し累進して二等軍曹となる。明治4年8月陸軍少尉となり同年12月には陸軍大尉に進んだ。近衛兵仙台鎮台附を経て、明治10年の西南戦争では7月より征討軍団編入となり日向国大隅国薩摩国を転戦した。明治11年6月、その功により勲五等に叙された。明治12年3月、陸軍少佐に昇任し歩兵第2連隊第2大隊長となる。明治16年2月には歩兵第3連隊第2大隊長となる。明治17年6月、歩兵第2連隊第2大隊長を経て、明治18年5月に陸軍中佐に進み歩兵第6連隊長に補された。明治19年5月歩兵第23連隊長に転じ、明治24年7月陸軍大佐に進んだ。

明治27年の日清戦争では第6師団に編入となり、威海衛の攻略に貢献しその功により功四級に叙された。明治29年10月、陸軍少将に昇任し歩兵第4旅団長に補された。明治32年3月、歩兵第3旅団に転じ、翌年の明治33年4月に休職となる。明治37年の日露戦争では5月に留守第6師団長兼歩兵第11旅団長として復帰し、師団補充の任に当たった。明治39年3月後備役編入となり、大正15年7月に病により薨去享年は79。墓所は青山霊園立山墓地[2]

家族[編集]

  • 妻:多満
  • 次男:勝彦

脚注[編集]

  1. ^ 墓碑には同年6月29日没
  2. ^ 軍人顕彰会 山口県出身