孟業

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孟 業(もう ぎょう、生没年不詳)は、北魏末から北斉にかけての官僚は敬業。本貫鉅鹿郡鄡県

人物・経歴[編集]

寒門の生まれで、若くして州吏となった。清廉謹直な性格で、同僚たちが官の絹を盗んで、30疋を分け前として孟業に与えようとしたが、孟業は拒否して受け取らなかった。北魏の彭城王元韶定州刺史に任じられると、孟業はその下で典籤となった。長史の劉仁之中書令として入朝することとなると、孟業を信任するよう元韶に言い残した。孟業は1頭の馬を持っていたが、痩せ衰えて死んでしまった。元韶は孟業の家が貧しかったことから、州府の官人とともに馬の肉を食わせ、手厚い補償を与えようとした。しかし孟業は固辞して受け取らなかった。後に高歓は孟業を側近に置くよう促す手紙を元韶に送った。劉仁之は西兗州刺史として出向するにあたって、吏部の崔暹に孟業を推挙した。

北斉の天保初年、清河王高岳司州牧に任じられると、孟業の評判を聞いて召し出し、法曹とした。孟業は短躯であったため、高岳はその外見を卑しみ、笑って言わなかった。後に高岳は孟業の処断の明快ぶりに感心して、態度を改めた。河間王国郎中令に転じた。561年皇建2年)に東郡太守に転じ、寛容な統治で知られた。後に広平郡太守に転じた。武平末年[1]、太中大夫となり、衛将軍の号を加えられた。まもなく病没した。

脚注[編集]

  1. ^ 北史』循吏伝は「武平九年」とするが、これは北斉滅亡後の578年に相当する。

伝記資料[編集]

  • 北斉書』巻46 列伝第38
  • 『北史』巻86 列伝第74