大阪市立鷺洲小学校

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大阪市立鷺洲小学校
地図北緯34度41分58秒 東経135度28分45秒 / 北緯34.69932度 東経135.47908度 / 34.69932; 135.47908座標: 北緯34度41分58秒 東経135度28分45秒 / 北緯34.69932度 東経135.47908度 / 34.69932; 135.47908
過去の名称 西成郡鷺洲尋常小学校
西成郡鷺洲尋常高等小学校
西成郡鷺洲第一尋常高等小学校
大阪市鷺洲第一尋常高等小学校
大阪市鷺洲第一尋常小学校
大阪市鷺洲国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大阪市
校訓 よく考えてやりぬく子
豊かな心で高め合う子
ねばり強くがんばる子
健康でたくましい子
設立年月日 1898年12月7日
創立者 西成郡鷺洲村
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
学校コード B127210000214 ウィキデータを編集
所在地 553-0002
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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大阪市立鷺洲小学校(おおさかしりつ さぎすしょうがっこう)は、大阪府大阪市福島区にある公立小学校

沿革[編集]

学校所在地周辺は明治時代初期までは西成郡浦江村に属し、1889年の町村制施行により周辺の村との合併で西成郡鷺洲村となった。

1872年の学制発布を受け、当時の西成郡海老江村・上福島村(現在の福島区福島付近)・浦江村(現在の北区大淀、福島区鷺洲)・大仁村(現在の北区大淀付近)の4村連合で1874年8月、上福島村に第三中学区西成郡第三小学区第三番小学校(のち上福島小学校。現在の大阪市立上福島小学校および大阪市立福島小学校の前身校)が設置された。

海老江村の学校は1877年に第三中学区西成郡第三小学区第九番小学校として独立した。1885年には大仁村・浦江村・海老江村の学校が合併し、西成郡鷺洲小学校となった。しかし1887年には再び上福島小学校へ統合され、学校組合立の神子田尋常小学校となった。

学校組合を形成していた上福島村・下福島村は1897年、大阪市の第一次市域拡張により大阪市に編入されることになった。一方で鷺洲村は編入されずに残った。鷺洲村在住の児童は引き続き神子田尋常小学校に通学していた。

鷺洲村は1898年6月、村独自の学校の設置を決議した。決議を受けて校地選定や校舎建築に取りかかり、1898年12月7日付で西成郡鷺洲尋常小学校として西成郡鷺洲村南浦江八反田(現在地・当時の住所表示)に開校した。1901年には高等科を併設し、西成郡鷺洲尋常高等小学校と改称した。

鷺洲村は新淀川の開削により、村北部の塚本(現在の淀川区塚本西淀川区柏里付近)および海老江新家(現在の西淀川区花川付近)が、新淀川で隔てられた飛地状の地域となった。本校からの距離もあることなどから1910年には塚本に、新淀川北岸の塚本・海老江新家在住の1・2年児童が通学する分教場が設置された。

地域の児童数増加により、1912年9月に西成郡鷺洲第二尋常小学校を分離した。これに伴い西成郡鷺洲第一尋常高等小学校へと改称している。なお鷺洲第二小学校(のち大仁国民学校)は現在の大阪市立大淀中学校の場所にあったが、戦災によって浦江小学校(現在の大阪市立大淀小学校)に統合されて1946年に廃校となっている。

1914年には西成郡鷺洲第三尋常小学校(現在の大阪市立海老江西小学校)が分離開校した。その際に分教場は鷺洲第三小学校に移管されている。分教場はのちに鷺洲第五尋常小学校として独立し、現在の大阪市立柏里小学校となっている。

1918年には鷺洲第一・鷺洲第二の両校の校区を再編し、西成郡鷺洲第四尋常小学校(現在の大阪市立大淀小学校)が開校した。

1925年に大阪市に編入されたことに伴い、大阪市鷺洲第一尋常高等小学校と称した。1933年には校区の一部を再編し、大阪市鷺洲第六尋常小学校(現在の大阪市立海老江東小学校)が開校している。

1934年9月21日室戸台風では木造校舎2棟が倒壊[1]し、児童5名が死亡している。

1940年には鷺洲地域の各小学校に設置されていた高等科を集約して、西淀川区浦江上3丁目(現在の福島区鷺洲6丁目)・大日本紡績社宅跡に、高等科単独の小学校・大阪市鷺洲高等小学校(1941年国民学校令により大阪市八阪国民学校に改称)を新設した。これに伴い、高等科を鷺洲高等小学校へと移管している。鷺洲高等小学校(八阪国民学校)は学制改革で廃止になり、跡地は大阪市立八阪中学校となっている。

1941年には国民学校令により、大阪市鷺洲国民学校に改称した。太平洋戦争の戦局悪化により大阪市の国民学校では1944年以降学童疎開を実施することになった。疎開先は各行政区ごとに割り当てられ、福島区の国民学校では広島県方面への疎開が実施された。鷺洲国民学校では広島県芦品郡府中町粟生村国府村(以上、現在の府中市)および芦品郡新市町常金丸村網引村(以上、現在の福山市)への疎開が実施された。また御真影教育勅語謄本は、北河内郡四條畷町・四條畷国民学校(現在の四條畷市立四條畷小学校)へと疎開させている。

1945年6月の大阪大空襲では、校舎に被害を受けた。

1947年の学制改革により、大阪市立鷺洲小学校に改称している。

年表[編集]

  • 1898年12月7日 - 西成郡鷺洲尋常小学校として開校。
  • 1901年4月 - 高等科を併設。西成郡鷺洲尋常高等小学校と改称。
  • 1910年3月 - 鷺洲村字塚本に分教場を設置。
  • 1912年9月 - 西成郡鷺洲第一尋常高等小学校に改称。西成郡鷺洲第二尋常小学校を分離。
  • 1914年9月 - 西成郡鷺洲第三尋常小学校(海老江西小学校)を分離。分教場を鷺洲第三校へ移管。
  • 1918年11月 - 西成郡鷺洲第四尋常小学校(大淀小学校)を分離。
  • 1925年4月1日 - 鷺洲町が大阪市に編入されたことに伴い、大阪市鷺洲第一尋常高等小学校に改称。
  • 1931年6月 - 校内に大阪市立貫江田(ぬきえだ)幼稚園を併設。
  • 1933年 - 従来の校区の一部を、新設の大阪市鷺洲第六尋常小学校(現在の大阪市立海老江東小学校)へ分離。
  • 1934年9月21日 - 室戸台風で校舎倒壊、児童5名が死亡。
  • 1940年4月 - 高等科を大阪市鷺洲高等小学校へ分離。大阪市鷺洲第一尋常小学校に改称。
  • 1941年4月1日 - 国民学校令により、大阪市鷺洲国民学校に改称。
  • 1944年9月 - 広島県芦品郡学童集団疎開
  • 1945年6月 - 大阪大空襲により校舎被災。
  • 1947年4月1日 - 学制改革により、大阪市立鷺洲小学校に改称。
  • 1975年4月 - 大阪市立貫江田幼稚園が独立園となる。
  • 1993年10月 - 第21回全国小学校国語教育研究大会大阪大会の会場校となる。

通学区域[編集]

  • 大阪市福島区 鷺洲1-6丁目(全域)。
  • 大阪市福島区 海老江1丁目の一部、海老江3丁目の一部。
卒業生は大阪市立八阪中学校へ進学する。

交通[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 学校倒壊百四十三、学童死傷二千四百人『大阪毎日新聞』昭和9年9月22日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p230 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

参考文献[編集]

  • 大阪市立鷺洲小学校『鷺洲 創立100周年記念誌』大阪市立鷺洲小学校創立100周年記念事業委員会、1998年。 
  • 大阪都市協会『福島区史』福島区制施行五十周年記念事業実行委員会、1993年。 
  • 西成郡鷺洲町役場『鷺洲町史』1925年。 
  • 赤塚康雄『続・消えたわが母校 なにわの学校物語』つげ書房新社、2000年。ISBN 4-8068-0439-8 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]