周留城

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周留城スル[要出典]じょう、朝鮮語: 주류성(チュリュソン))、支羅城シラ[要出典]じょう、지라성(チラソン))、州柔城スヌ[要出典]じょう、つぬさし[1]주유성(チュユソン))または疎留城(そりゅうじょう、そるさし[1]소류성(ソリュソン))は朝鮮半島の現在の忠清南道にあった百済

百済が新羅により滅ぼされた後、百済の将軍の鬼室福信と僧の道琛百済復興運動の拠点とした。白村江の戦いでの陸戦の主戦場となった。

その位置については多くの説があるが、白村江との関係で、錦江下流北側の山岳地帯にあったと推定されている。

脚注[編集]

  1. ^ a b 日本書紀』の秘訓(『釈日本紀』による)に基づく訓み。「周留」「支羅」の漢字表記は『三国史記』に、「州柔」「疎留」の漢字表記は『日本書紀』に基づく。参考:井上光貞監訳、佐伯有清・笹山晴生 訳『日本書紀III』中央公論新社〈中公クラシックス〉、2003年。ISBN 4121600592