吉備那多利

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吉備 那多利(きび の なたり、生年不詳 - 継体天皇24年(530年))は、古代の日本人と任那人との混血児である。

記録[編集]

吉備那多利が兄弟(と思われる)斯布利(しふり)と共に登場するのは、『日本書紀』巻第十七の以下の記述のみである。

秋九月(ながつき)に、任那の使(つかひ)奏(まう)して云(まう)さく、「毛野臣(けなのおみ)、遂(つひ)に久斯牟羅(くしむら=現在の昌原市馬山地区)にして、舎宅(いへ)を起(おこ)し造りて、淹留(とどまりす)むこと二歳(ふたとせ)、(中略)政(まつりごと)を聴くに懶(よそほしみ)す。爰(ここ)に日本人(やまとひと)と任那の人との、頻(しきり)に児(こ)息(う)めるを以て、諍訟(あらがふこと)決(さだ)め難(がた)きを以て、元(はじめ)より能判(ことわ)ること無し。毛野臣、楽(この)みて誓湯(うけひゆ)置きて曰はく『実(まこと)ならむ者(もの)は爛(ただ)れず、虚あらむ者は必ず爛れむ』といふ。是(ここ)を以て、湯に投(め)して爛れ死ぬる者衆(おほ)し。又(また)吉備韓子那多利(きび の からこ なたり)・斯布利(しふり)を殺し(中略)、恒(つね)に人民(おほみたから)を悩(なやま)して、終(つひ)に和解(あまな)ふことなし」とまうす。[1] (秋九月、任那の使が奏上して、「毛野臣は久斯牟羅に住居をつくり、滞留2年、政務も怠っています。日本人と任那人の間に生まれた子供の帰属の争いについても、裁定の能力もありません。毛野臣は好んで誓湯(うけいゆ)を設け、『本当のことをいう者は爛れないが、うそをいう者はきっと爛れる』と言って、熱湯の中に手を入れさせ、湯につけられて爛れ死ぬ者が多い。また吉備韓子那多利・斯布利を殺したり、(中略)常に人民を悩まし、少しも融和するところがありません)といった。)訳:宇治谷孟

ここで言う、「韓子」(からこ)とは、とは日本人と外国人との間に生まれた混血を指すもので、この場合は吉備人と任那人の間に生まれた子供になる。那多利と斯布利が何をしたのか、については、一切触れられていない。また、「毛野」を「けな」と読むのは、『日本書紀』継体天皇24年是歳条の妻の和歌によるものである。

この物語は、『書紀』巻第十五の顕宗天皇3年(推定487年)の、紀大磐三韓に王たらむとして、首府(みやつかさ)を整えて、自分を「神聖」(かみ)と名乗った、という記事[2]と呼応しており、近江毛野朝鮮半島での暴虐・経営の失敗の記事としてとらえられている。その前の箇所でも、毛野は百済の使者を怒らせたり、任那の4村を新羅に奪われるなど、数々の失敗を犯している。だが、これらは朝鮮半島の立場から描かれた視点である。失政があったのは事実だとしても、『書紀』の史料に『百済三書』が用いられていることも事実である。

吉田晶は、吉備勢力が朝鮮半島南部と独自の交流関係を持っており、二人が毛野臣に殺されたのは、彼らが血縁でつながる吉備勢力と、任那との交流に大きな役割を果たしており、大王の権力による外交の一元化の障害物とされたためだと推測している。5世紀後半の雄略天皇時代の記事でも吉備小梨任那日本府の将軍として活躍しており[3]、この時代の記事でも巻第十九では、欽明天皇の時代の541年544年に「吉備臣」・「吉備弟君臣」が散見している[4]

毛野臣は倭国から派遣された人物であり、現地の人民を悩まし、和解することがなかったとあるように、現地の利害と衝突することがあり、吉備韓子もヤマト王権側ではなく、現地の立場を代弁したものと考えられる。ここからは、ヤマト王権と倭系加耶人との立場の相違が確認され、「日本府」としての一体性は読み取れない[5]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』継体天皇24年9月条
  2. ^ 『日本書紀』顕宗天皇3年是歳条
  3. ^ 『日本書紀』、雄略天皇8年2月条
  4. ^ 『日本書紀』欽明天皇2年4月条、5年3月条
  5. ^ 仁藤敦史「倭・百済間の人的交通と外交 : 倭人の移住と倭系百済官僚 (第1部 総論)」『国立歴史民俗博物館研究報告』第217巻、国立歴史民俗博物館、2019年9月、29-45頁、CRID 1050569070642607232ISSN 0286-7400 

参考資料[編集]

関連項目[編集]