千歳楼 (春日井市)

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千歳樓
施設外観(2017年10月)
施設外観(2017年10月)地図
ホテル概要
運営 株式会社千歳樓
所有者 櫻井喜美夫
階数 地下1階 - 地上4階
駐車場 15台
開業 1928年昭和3年)
閉業 2003年平成15年)
最寄駅 JR中央本線 定光寺駅
所在地 〒487-0004
愛知県春日井市玉野町
位置 北緯35度16分33.9秒 東経137度4分50.6秒 / 北緯35.276083度 東経137.080722度 / 35.276083; 137.080722座標: 北緯35度16分33.9秒 東経137度4分50.6秒 / 北緯35.276083度 東経137.080722度 / 35.276083; 137.080722
公式サイト 公式サイト
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1955年昭和30年)の定光寺公園の広告

千歳楼[1]千歳樓[2]、ちとせろう)は、かつて愛知県春日井市玉野町に存在した旅館[3]。玉野川渓谷(庄内川渓谷)に面する場所に位置する[4]

2003年(平成15年)に廃業後も建物が解体されずに残っており、心霊スポットとして知られている[5]

情報[編集]

『全国著名旅館大鑑』に見る情報[編集]

千歳楼について1964年出版の『全国著名旅館大鑑』には以下の様に記載されている。

  • 経営者 - 桜井照夫[1]
  • 交通 - 中央本線定光寺駅より徒歩3分[1]
  • 客室 - 和17室[1]
  • 広間 - 100、55畳(共に舞台付)、30畳[1]
  • 収容客数 - 個人56名[1]
  • 料金 - 標準2500円、最高3000円、最低1500円[1]
  • 浴室 - 大風呂1、露天風呂1、岩風呂1、婦人風呂1、家族風呂1[1]
  • 設備 - バー卓球、喫茶室、売店、談話室、食堂駐車場[1]
  • 環境・庭園 - 当館は山腹にあって玉の川の渓流に沿い、閑静で交通も至便である[1]
  • 所属団体 - 日観連、公旅連[1]

歴史[編集]

名古屋の奥座敷[編集]

1928年(昭和3年)に千歳樓社長・櫻井喜美夫の祖父が名古屋市に料理店を創業した[2][3][6]。1952年(昭和27年)、株式会社[2]。1954年(昭和29年)、現在地に移転し、旅館業を開始[2]

国鉄中央本線定光寺駅に近く、春の桜や秋の紅葉が楽しめる場所として、1935年(昭和10年)頃から付近一帯は名古屋近郊の観光地として栄えるようになった[7]。千歳樓もこの渓谷の風景と付近の定光寺を観光資源として、「名古屋の奥座敷」として多数の客を集めた[3]

千歳樓の客のなかには政府系金融機関の総裁をはじめ、事業家、高僧、文人などもいたといい、多数の芸者が呼ばれたという[7]。こうした活況は昭和30年代まで続いたが、自家用車の普及などによって徐々に信州・飛騨といった場所に名古屋からの観光客を奪われるようになっていった[7]

瀬戸市に近いという立地から、1980年代には「陶芸作家がよく利用する場所」ともなっており、当時の千歳樓の女将は陶芸作家との交流があった[4]。そのため、加藤唐九郎河本五郎加藤卓男といった著名な陶芸作家の作品が旅館に置かれていたという[4]。また、総合結婚式場を併設しており[8]、本格的な日本料理も有名だった[5][注釈 1]

倒産[編集]

最盛期の1994年(平成6年)には年商10億円近くを記録したこともあったが、しかし、その後、来客数は減少していった[6]。付近に最も多い時で8軒あった旅館は、すでに1999年(平成11年)時点で千歳樓を含めて2軒にまで減少していた[7]。千歳樓は、瀬戸焼ツアーの計画をしたり[7]、著名な料理人を総料理長として招聘し同時に料理教室を開催する[9]などの経営努力を行ったものの、2003年(平成15年)に6億円の負債を抱えて倒産した[6][10]。長年仕えた従業員22名は解雇された[2]

帝国データバンクは「宿泊客、来場客が伸びなかったため、ついに行き詰まった」と分析した[6]

心霊スポット化[編集]

2003年(平成15年)10月の廃業以後、千歳樓の建物[注釈 2]は放置され、愛知万博が終わった2005年(平成17年)頃から荒廃が進むようになった[12]債権者らが1階の窓ガラスを割って室内金庫、高級食器、客が忘れていった腕時計や宝飾品を次々に持ち出していった[2]。さらに建物の根抵当権が大手都市銀行から債権回収会社に移り、管財人との連絡も取れなくなったため、取り壊しを行うことは難しくなった[12]

そうしたなか、2008年(平成20年)4月5日に旅館屋上の枯れ草から出火し、エレベーターホールや大広間が焼ける事件が発生した[12]。これ以後、繰り返し不審火が起き、特に2008年(平成20年)8月22日の火事は5時間に及ぶ大火事となり、木造平屋風呂棟と木造二階建事務所の合計200平方メートルが焼けたという[12]

屋上には雑草が生え、多くの窓ガラスや障子が破られて廃墟となった旅館は、やがてインターネット上で心霊スポットとして知られるようになった[12]。夜中には若者の集団も不法侵入するようになり、そのため、2008年(平成20年)8月以降は現地の消防本部が侵入対策としてフェンスの設置やパトロールを行っている[12]

しかし、その後も不法侵入は繰り返され、防犯カメラ6台の設置などの対策も行われた[5]。2017年(平成29年)現在でも過去1年間の近隣住民からの通報は10回以上に上り、同年7月には肝試しのために侵入した高校生9人が書類送検されている[5]

更には2012年(平成24年)8月に16歳の少年と名乗る人物から110番通報があり、その後旅館1階から身元不明の白骨化死体が見つかっている[11]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ なお、1983年(昭和58年)にこの春日井市の旅館を運営する「株式会社千歳樓」から「千歳楼株式会社」が分離して設立され、前者の倒産後も「千歳楼株式会社」は愛知県名古屋市中区錦三丁目にあるレストラン「千とせ家 錦店」などを運営している[6]。株式会社千歳樓と千歳楼株式会社は、役員及び会社間の保証関係等一切関係がない[6]。ただし株式会社千歳樓社長の櫻井喜美夫と千歳楼株式会社社長の櫻井茂は実の兄弟である[6]。株式会社千歳樓社長の櫻井喜美夫は「グループ会社を分離した」と説明している[6]。櫻井兄弟の父・櫻井照夫が1990年に没した後を継いだのが櫻井茂である[6]。1994年(平成6年)までは弟の茂が株式会社千歳樓の社長に就いていた[6]
  2. ^ 地上4階地下1階建て[11]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『全国著名旅館大鑑』651頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 『消えゆく日本の廃墟 廃墟が語る日本の裏歴史』76-77頁。
  3. ^ a b c 「管理者なし募る不安 春日井の千歳楼火災 心霊スポット集う若者」『中日新聞』2008年8月23日付朝刊なごや東総合、23頁。中日新聞記事データベースにて閲覧。
  4. ^ a b c 『入門日本のやきもの 全国窯元ガイド』読売新聞社、1986年、35頁。ISBN 9784643622607
  5. ^ a b c d 「廃旅館で肝試し 高校生に喝 春日井署 容疑9人書類送検へ」『中日新聞』2017年7月27日付夕刊社会、11頁。中日新聞記事データベースにて閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j 服部静明. “連載 これ以上は書けない 不思議な倒産”. 中部財界. 中部財界社. 2017年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月30日閲覧。
  7. ^ a b c d e 「近郊この百年 20世紀の足跡 玉野川渓谷の隆興期 1935年 中京地区の指折り景勝地行楽に参拝客どっと 旅館や土産物店も次々」『中日新聞』1999年10月24日付朝刊、22頁。中日新聞記事データベースにて閲覧。
  8. ^ 「ひと・ゆうかんさろん・人」『中日新聞』1990年10月6日付夕刊、2面2頁。中日新聞記事データベースにて閲覧。
  9. ^ 「頑張る地域の料理旅館 伝統守る隠れリゾート(下)」『中日新聞』2002年9月2日付東海版朝刊生活経済、9頁。中日新聞記事データベースにて閲覧。
  10. ^ 有名「心霊スポット」に座ったままの白骨死体 「あまりにリアル」「本当に怖い場所だったんだ」”. J-CASTニュース (2012年8月16日). 2017年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月28日閲覧。
  11. ^ a b 「廃業旅館に白骨化遺体」『中日新聞』2012年8月15日付夕刊二社、10頁。中日新聞記事データベースにて閲覧。
  12. ^ a b c d e f 「不審火相次ぐ春日井の旧『千歳楼』 繰り返される侵入 夜中に若者の集団 たむろ 市消防本部フェンス設置もイタチごっこ」『中日新聞』2009年7月12日付朝刊近郊版、23頁。中日新聞記事データベースにて閲覧。

参考文献[編集]

  • 『全国著名旅館大鑑』日本交通公社協定旅館連盟、1964年。
  • 『消えゆく日本の廃墟 廃墟が語る日本の裏歴史』大洋図書2014年

外部リンク[編集]