冷泉範遠

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冷泉 範遠
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文20年8月29日1551年9月29日)?[1]
天文20年9月28日(1551年10月27日)?[2]
別名 冷泉紹恵入道、一忍軒?[3]
官位 正五位下、左兵衛佐左馬頭
氏族 藤原北家長良流冷泉家
父母 父:冷泉永宣
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冷泉 範遠(れいぜい のりとお)は、戦国時代公卿。『知譜拙記』によると官位正五位下左馬頭[4]

概要[編集]

範遠は大内義隆の装束の師であった。萩原大輔は、大寧寺の変において殺害された「一忍軒」を範遠に比定している。そして、大寧寺の変において柳原資定清原業賢持明院基規法性寺親世良は生存しており、変の翌年には飛鳥井雅綱雅教親子が山口に訪れていることから、陶隆房ら従来の大内氏被官には明確に目標とする公家がおり、それが大内氏家中にて発言権を持っていた小槻伊治と一忍軒(範遠か)であったとする[5]。ただし、『知譜拙記』では大寧寺の変から1ヶ月ほど経った天文20年9月28日(1551年10月27日)に死去したとされている[6]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 萩原大輔「戦国期大内氏分国下向公家と「陶隆房の乱」」『日本文学研究ジャーナル』19号(古典ライブラリー、2021年)
  2. ^ 『知譜拙記』
  3. ^ 萩原大輔「戦国期大内氏分国下向公家と「陶隆房の乱」」『日本文学研究ジャーナル』19号(古典ライブラリー、2021年)
  4. ^ 『知譜拙記』
  5. ^ 萩原大輔「戦国期大内氏分国下向公家と「陶隆房の乱」」『日本文学研究ジャーナル』19号(古典ライブラリー、2021年)
  6. ^ 『知譜拙記』