佐賀空襲

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佐賀空襲(さがくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年8月5日23時半ごろから翌日午前1時ごろにかけ[1]佐賀県佐賀市の南部や旧川副町、旧諸富町などを襲った空襲日本本土空襲の1つ。65機のB29により攻撃され、死者61人、焼失家屋443戸という被害が出た。前日には、ビラまきにより爆撃の予告も行われていた[2][3][4]

概要と経緯[編集]

住喜重著「中小都市空襲」によると、米軍による日本戦略爆撃第2期から第3期にかけて、マリアナテニアンを基地とするB29爆撃隊は、日本の中小57都市を爆撃する戦略爆撃作戦を敢行した。この作戦の特徴は、事前に目標となる都市名を記して、日本国民の戦意を喪失させるビラを爆撃の前に散布する「リーフレット心理作戦」である。このビラは大量に撒かれたが、警察消防団の必死の回収作業で一般国民に知られることは少なく、たとえこのビラを拾ってもすぐに交番に届けないとスパイ呼ばわりされる非常時だった。爆撃はこの予告通り、正確に目標都市を狙い、8月1日,2日の第13回には679機のB29が5,127トンの爆弾焼夷弾を投下し、八王子富山長岡水戸を壊滅させた。その間米軍の被害は、弾倉から出火後行方不明になった1機のみである。

ついで8月5日・6日の第14回爆撃は474機のB29が前橋西宮今治、佐賀を襲い、3,696トンの爆弾、焼夷弾を投下。米軍作戦報告書によると、前橋、西宮御影市街地、今治市街地と宇部石炭液化工場を炎上させたが、佐賀に関しては何の記載もなかった。佐賀空襲を命じられた第58航空団麾下の2軍団65機は、1945年8月5日午後4時にテニアン西飛行場を発進、硫黄島上空を経て、午後11時41分から6日午前0時43分までの1時間に、459トンの高性能爆弾、焼夷弾を投下したが、闇に隠れた佐賀市街は燃えず消失面積0であったとの記録があり、先導機は島原半島南串山町国東で北北東に転進したが、レーダー・スコープ上の佐賀市の映像は弱く、灯火管制も万全であったので、結局南佐賀の田園地帯に全弾を投下、農家や鎮守の杜を焼いただけで終わったとある。佐賀市(当時の城内地区を中心とした市域)の記録によると、焼夷弾によって多くの家屋が焼け、命を落とされた方は61名。特に国道208号線沿いの諸富、北川副、大崎地区は酷く、「堀という堀には村人たちが首まで水につかって、頭には水草をのせて空襲の終わるのをまっていた」と記される。戦後の米軍資料には、「中心市街地を狙ったが夜間で目標を見誤って戦果がなかった」と記録される。

これについて、県が灯火管制を徹底していたことや、米軍爆撃機の持っている地図は江戸時代から明治期の古い地図を使っていて、実際の佐賀平野は有明海干拓によって陸地を南に広げて地形が著しく変化をし続けていたため、地図よりも目標位置を南方に認識した可能性が指摘される他、有明海の約6メートルという日本一の干満差のある自然現象が、米軍の爆撃対象調査の測量時に比べて夜間の干潮で海岸線が南へ大幅に(最大で4キロメートル)下がっていたことで予想外の結果を生じさせ、諸富、北川副地区の被害が大きくなってしまったとも強く指摘される[5]

当時の佐賀県の宮崎謙太知事は、戦災体制を指揮し佐賀空襲では夜間まで灯火管制を万全に整えて対応した。佐賀空襲後の12日の白昼空襲で庁舎の一部が爆破された際にも陣頭指揮を執っていて負傷して以来欠勤していたが、玉音放送の直後には登庁し県民を敗戦の混乱から守るため誇りを堅持して服務に戻った[6]

各地の被害[編集]

道路が迂回するように通る北川副町新村地区のの木。空襲で周囲の家屋が焼失する中焼け残ったと伝えられる[2]

被害の大きかった北川副村(現・佐賀市北川副町)では、家屋のほか、岩松軒寺や光源寺といった寺院、合わせて91戸が焼失し、死者21名を出した[4][7]。同村の北川副国民学校(現佐賀市立北川副小学校)は講堂をはじめとして校舎が全焼する被害となった[4][8][9]

東川副村及び新北村(現・佐賀市諸富町)では合わせて焼失147戸、死者18名を数える被害となり、駐在所や(旧)佐賀中央銀行諸富支店などが全焼した[3]西川副村(現・佐賀市川副町)では小々森地区・波佐古地区を中心に20戸が焼失、死者7名となった[3]

久保田村(現・佐賀市久保田町)では久富地区を中心に72戸が全焼、死者4人となった[3][10]。東与賀村(現・佐賀市東与賀町)でも7戸が被災し[3]、3日後には集められていた不発弾に触れた少年3名が死傷する事故も発生した[11]

佐賀市内でも南部の水ヶ江町付近で約150戸が焼失する被害があり[3]、同町にあった病院1棟が全焼、県立盲唖学校(佐賀県立盲学校ろう学校)も校舎が全焼した[12]

兵庫村高木瀬村でも死者を出す被害があった[3]。現在の日の出にあった陸軍の高木瀬練兵場付近では兵士が死傷し建物が燃えている[13]

なお、空襲から7日後の8月12日にも佐賀市中心部で爆撃の被害があった。佐賀市では8月2日から中心部で建築規制区域の指定による建物疎開が始まったが、空襲によってその実施が急がれることとなった。8月12日の爆撃では、県庁通りに建つ靴屋の建物疎開作業に従事していた龍谷中学校の2年生3名と運搬を行う馬車屋が犠牲となった[14]

脚注[編集]

  1. ^ ①朗読劇「楠の木は見ていた」(佐賀空襲を語り継ぐ会)【第29回佐賀市平和展】”. 佐賀市. 2021年2月15日閲覧。
  2. ^ a b 佐賀空襲を記録する会 2012.
  3. ^ a b c d e f g 佐賀市史 1979, p. 846-847.
  4. ^ a b c 『わが郷土北川副町の歴史』p.74(佐賀空襲、佐賀の歴史・文化お宝帳(佐賀市地域文化財データベース)、2023年5月18日閲覧)
  5. ^ 低平地研究の豆知識
  6. ^ 第一章 佐賀県 県政の概要
  7. ^ 佐賀空襲を記録する会 2012, p. 321.
  8. ^ 佐賀空襲を記録する会 2012, p. 323.
  9. ^ 歴史 北川副小学校のあゆみ”. 佐賀市立北川副小学校. 2023年3月12日閲覧。
  10. ^ 『久保田町史』pp.705-707(久富東、佐賀の歴史・文化お宝帳(佐賀市地域文化財データベース)、2023年5月18日閲覧)
  11. ^ 『東与賀町史』p.1204(焼夷弾による爆撃、佐賀の歴史・文化お宝帳(佐賀市地域文化財データベース)、2023年5月18日閲覧)
  12. ^ 『鍋島町史』p9.(佐賀県立ろう学校、佐賀の歴史・文化お宝帳(佐賀市地域文化財データベース)、2023年5月18日閲覧)
  13. ^ 旧練兵場及び土取」、佐賀の歴史・文化お宝帳(佐賀市地域文化財データベース)、2023年5月18日閲覧
  14. ^ 佐賀市史 1979, p. 846.

参考文献[編集]

  • 佐賀空襲を記録する会『佐賀空襲 第三版』佐賀空襲を記録する会、2012年12月。 
  • 佐賀新聞社『刻む-佐賀・戦時下の記憶』佐賀新聞プランニング、2016年。 
  • 佐賀市史編さん委員会『佐賀市史 第4巻<近代編:大正・昭和前期>』1979年。 (参考Web公開資料:佐賀市 旧市町村史(誌)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 佐賀空襲 - Jinkawiki
  • Nos.312 - 314, 316, Saga, Maebashi, Nishinomiya-Mikage and Imabari(佐賀、前橋、西宮・御影、今治), 5-6 August 1945(1945年8月5日-6日). Report No. 2-b(70), USSBS Index; Section 7(米国戦略爆撃調査団文書; 第21爆撃軍団作戦任務報告書)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 記念碑「B29空爆焦土」 - 総務省 一般戦災死没者の追悼施設
  • "Japan, Kyushu - Saga Prefecture, Saga, Series: AMS L902, 1945, 1:12 500" hdl:1885/237005 - 米国陸軍地図局作成の1945年の佐賀市周辺の地図