佐藤正治 (野球)

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佐藤 正治
基本情報
出身地 日本の旗 日本三重県
生年月日 (1944-07-05) 1944年7月5日(79歳)
身長
体重
172 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1969年 ドラフト5位
初出場 1970年4月16日
最終出場 1975年10月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

佐藤 正治(さとう まさはる、1944年7月5日 - )は、三重県[1]出身の元プロ野球選手外野手)。

来歴・人物[編集]

名古屋商科大学付属高等学校(現:名古屋国際高等学校)では、1年上にエースの鬼頭洋がいた。卒業後は専修大学に進み東都大学野球リーグで活躍。1965年の春秋季リーグでは、1年生エース芝池博明を擁し連続優勝、秋季リーグでは大倉英貴芝工大)に次ぐ打率2位でベストナインとなる。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で立命大を降し優勝している。1年上のチームメートに佐野真樹夫、同期に塩沢誠がいた。

卒業後は河合楽器に入社し、3年連続都市対抗野球大会に出場。1968年都市対抗では決勝に進むが、富士製鐵広畑神部年男岡田光雄松下電器から補強)の継投に0-1で完封負け[2]。同大会の優秀選手に選出された。この時のチームメイトに上垣内誠西村俊二堀内嗣郎がいる。同年8月にはアラスカ・ゴールドパナーズ[3]との日米親善野球試合に出場した。同年のドラフト会議東映フライヤーズから7位指名されたが、入団を拒否。1969年都市対抗でも準決勝まで進むが、エース若宮秀雄を擁する電電関東に惜敗[2]

1969年のプロ野球ドラフト会議阪神タイガースから5位指名を受け入団[1]。1年目から一軍に定着し、21試合に先発出場を果たす。レギュラーには届かなかったが俊足で鳴らし、リードオフマンに起用されるほか、代打、代走、守備固めと幅広く活躍した。しかし1974年にはボビー・テーラーの入団もあって出場機会が減少する。

1975年も62試合に出場したが、オフに現役を引退[1]。その理由については、表向きは古傷の悪化などであったが、実際には江夏豊望月充と共に南海ホークスへの移籍要員となっていたが、江夏・望月の「おまけ扱い」であることに激怒し、拒絶の意で引退したとも言われている[4][5]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1970 阪神 96 144 124 31 30 6 2 1 43 10 16 2 2 0 14 0 4 15 4 .242 .338 .347 .685
1971 102 153 143 17 28 1 1 0 31 1 14 3 2 0 5 0 3 17 3 .196 .238 .217 .455
1972 89 102 94 15 26 2 0 0 28 3 6 9 2 0 5 1 1 15 4 .277 .320 .298 .618
1973 87 177 155 11 28 2 1 1 35 7 5 2 2 1 17 1 2 20 1 .181 .269 .226 .494
1974 49 61 58 10 11 2 0 0 13 1 1 3 2 0 0 0 1 8 2 .190 .203 .224 .428
1975 62 48 41 15 10 0 0 0 10 0 1 2 3 0 4 0 0 2 1 .244 .311 .244 .555
通算:6年 485 685 615 99 133 13 4 2 160 22 43 21 13 1 45 2 11 77 15 .216 .281 .260 .541

記録[編集]

背番号[編集]

  • 33 (1970年)
  • 8 (1971年 - 1975年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、256ページ
  2. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ アラスカ・ゴールドパナーズ1968年」大学生を主体としアラスカ・リーグに所属するセミプロチームである
  4. ^ 『プロ野球トレード史II』世紀のトレード(ベースボール・マガジン社
  5. ^ 【1月19日】1976年(昭51) 決断するだけで話は出来上がっていた?江夏豊放出”. スポーツニッポン (2009年1月1日). 2021年2月28日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]