会式イ号航空船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

会式イ号航空船(かいしきイごうこうくうせん)は、日本の臨時軍用気球研究会が開発した飛行船1911年明治44年)の完成時には会式イ号飛行気球という名称だったが、1913年大正2年)にイ号航空船へと改称された[1]。また、会式イ号飛行船と俗称されることもある[1][2]

概要[編集]

小型軟式飛行船の建造をもって飛行船(飛行気球)の研究に着手することを計画した[3]臨時軍用気球研究会は、1910年(明治43年)6月に会式イ号の設計を開始した[1][2][4]。設計作業には大日本帝国陸軍から徳永熊雄工兵大尉と岩本周平技師、大日本帝国海軍から小浜方彦機関大尉が参加し[1][2][4]、模型による各部の研究・試験を経た[1]1910年10月[4]あるいは1911年1月に実物を起工[1]。組立調整に際して、山下誠一海軍機関大尉と徳川好敏陸軍工兵大尉も開発メンバーに加わった[4]

気嚢の製作は山田猪三郎率いる気球製作所が担当しており、表面にはゴム引木綿布、裏面にはゴム引絹布が使用された[1][4][5]。吊船(ゴンドラ)の製作は平岡鉄工所が担当[1][2][4]。エンジンのみ日本製ではなく、ウーズレー製・60馬力のものを搭載した[2][4]

1911年8月[2][6]下旬[6]あるいは10月13日に完成・竣工し、日本初の軍用飛行船となった[1]10月19日よりガス膨張を行った後[6]10月24日[1][6]あるいは25日[2]所沢飛行場で初飛行を行った[1][5][6]。初飛行は所沢飛行場上空を一周する形で行われ、その後も10月27日[1]あるいは28日まで引き続き試験飛行を実施した[6]。その中で、30 km以上の野外周回長距離飛行や[2][1][6]飛行機アンリ・ファルマン1910年型)との同時飛行を行っている[1]。初飛行時の操縦は伊藤赴陸軍工兵中尉が担当し[1][2]、伊藤中尉の他に中島知久平海軍機関中尉や[1][2][6]機関係の気球隊兵員2名が乗船した[6]

試験飛行を行う中で横安定板が増設されている他[7]、エンジンとプロペラを繋ぐ長い回転軸の故障も生じている[6]。その後、老朽化によって1914年(大正3年)3月に廃棄されている[7]

諸元[編集]

出典:『日本陸軍試作機大鑑』 131頁、『日本航空機総集 VIII』189,190頁、『日本の軍用気球』 104頁。

  • 全長:48.34 m
  • 最大直径:11.45 m
  • 気嚢総容積:2,930 m3(ガス房容積:2,410 m3、空気房容積:540 m3
  • 全備重量:3,220 kg
  • エンジン:ウーズレー 水冷直列4気筒(60 hp) × 1
  • 巡航速度:17.6 km/h
  • 航続時間:5時間
  • 武装:なし
  • 乗員:3 - 5名

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸軍試作機大鑑』 130頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本航空機総集 VIII』 189頁。
  3. ^ 『日本の軍用気球』 101,105頁。
  4. ^ a b c d e f g 『日本の軍用気球』 101頁。
  5. ^ a b 『日本航空機総集 VIII』 189,190頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j 『日本の軍用気球』 105頁。
  7. ^ a b 『日本陸軍試作機大鑑』 131頁。

参考文献[編集]

  • 秋本実『日本陸軍試作機大鑑』酣燈社、2008年、130,131頁。ISBN 978-4-87357-233-8 
  • 野沢正 『日本航空機総集 VIII 九州・日立・昭和・日飛・諸社篇』 出版協同社、1980年、148頁。全国書誌番号:81001674
  • 佐山二郎『日本の軍用気球 知られざる異色の航空技術史』潮書房光人新社、2020年、101,104,105頁。ISBN 978-4-7698-3161-7 

関連項目[編集]