京阪70型電車

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京阪70型電車
京阪70型電車72号(ファミリーレールフェア2009にて)
基本情報
製造所 守口工場、東洋機械興業
主要諸元
軌間 1,435 mm
車両定員 70人 (座席18)
自重 23.0t (自重), 30.3t (構内入換車総重量)
全長 13,200 mm
全幅 2,336 mm
全高 3,465 mm
台車 ブリル27E-1
主電動機 直流直巻電動機
主電動機出力 45kW×4
制御装置 QB-2、LBA 電動カム軸式複式制御器
制動装置 電気ブレーキ、GE非常直通式
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京阪70型電車(けいはん70がたでんしゃ)は、かつて京阪電気鉄道京津線で使用されていた電車路面電車車両)である。

概要[編集]

もともと、1940年(昭和15年)に無蓋貨車3101・02を大津線用固定クロスシート付オープンカー(制御車)に改造し、その牽引車となる予定であった車両である[注 1]100型の車体を50型に準じた新製車体に載せ替えたもので、70 - 79の10両が製造された。戦局を鑑みて資材・資金を節減した改造車であったが、車体長は50型よりも1m長く、車体幅も同形式と比較して10mm広い[注 2]

改造前後対照表
改造前 112 127 128 129 123 124 125 131 136 126
改造後 70 71 72  73 74 75 76 77 78 79

1943年(昭和18年)4月に守口工場で75が竣工し、続いて同年12月に73が竣工した。残る8両は戦時下の資材不足により半鋼製車体が製造されたのみで完成できず、戦後の1948年(昭和23年)に東洋機械興業[注 3]により竣工した。 しかし、同年10月30日、京津線蹴上〜九条山間にて発生した浜大津行き電車のポール外れを発端とする後退リレー衝突事故により72が損傷し、東洋機械興業へ再入場した。

さらに、1949年(昭和24年)8月7日に発生した京津線四宮車庫の火災により72を除く9両が被災し、翌1950年(昭和25年)1月31日付けで廃車された。72は火災発生当時、前述した事故による復旧のため東洋機械興業で修理中だったおかげで偶然にも難を逃れたのであった。

残った72は1967年(昭和42年)まで京津線で使用され、80型の増備によって車籍からは抹消されたが、守口工場の牽引車として使用することになり、1968年(昭和43年)に連結器取付と集電装置のトロリーポールをパンタグラフへ交換、外部色を茶色・正面警戒色にした。1970年(昭和45年)には外部色の茶色をフタリットブルーに変更している。

守口工場から寝屋川車両基地への移転後も構内入換車として使用され、運転席の脇の扉とステップなど木造部品が残っている。この移転後の1983年(昭和58年)に以下の改修を受けている。

「ワガヤネヤガワ号」の愛称が付けられた72号車
  • 架線電圧1500V昇圧に伴う工事として車内に複電圧の電動発電機を搭載した。自走用主電動機の電源もこの電動発電機で発電する交流200Vを使用し、変圧器整流器を通して直流600Vに変換している。
  • 車体更新を実施し、正面の前照灯を屋上から窓下の埋め込みに変更した。側面の窓を一部撤去し、残存側窓のHゴム化と通風用グリルを設置し、川側の側面に大型扉を設けた。

なお、台車と主電動機は元をたどると京阪創業当時の1型のもので、1910年(明治43年)の製造から100年以上にわたり現役で使用されていることになる[注 4]

2014年9月、寝屋川車両基地で進められていた60型(びわこ号)修復プロジェクトにおいて構内で60型を牽引することが発表され、「ワガヤネヤガワ号」という愛称が新たに付された[1]。車番「72」を復元し、側窓を描いた板を設置して上半クリーム・下半ライトブルーに塗装変更している[2]。2014年11月9日の「びわこ号復活記念乗車会」では事前の告知通りに寝屋川車両基地構内で60型電車を牽引・推進した[3][4][5]。ただし、車体すべてが現役当時の仕様で復元されたものではない。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ したがって、京津線2両連結運転の原申請はこれらの車両とほぼ同時の1940年(昭和15年)10月22日に行なわれ、1941年(昭和16年)8月25日に認可されている。
  2. ^ 本車両の設計をとりまとめたのは車両課長の口羽玉人で、のちに車両掛長の青木精太郎に交代した。口羽は戦後も京阪神急行電鉄に残り、710型1000型(初代)2000型2300型の設計に携わっている。一方、オープンカーは青木がとりまとめている。
  3. ^ 東洋レーヨン(現:東レ)の子会社で、同社滋賀事業場内に所在していたが現存しない。
  4. ^ 京阪のウェブサイトでは「大正11年製造」と書かれているが、これは直接の前身である100型の製造年である。沖中によると、72号の前身となったのは100型113で、この113は1929年5月の改番前は128を名乗り、さらに旧128は1922年に1型32を改造して作られたものである。1型32は1910年9月に製造された。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 同志社大学鉄道同好会「私鉄車両めぐり(48)京阪電気鉄道〔終〕」『鉄道ピクトリアル』1962年7月号(通巻133号)。
  • 栗生弘太郎「資料公開 大津線70形と幻のオープンカー」『はと通信』6、1988年。
  • 澤村達也「私鉄車両めぐり(146)京阪電気鉄道」『鉄道ピクトリアル』1991年12月臨時増刊号(通巻553号)。
  • 沖中忠順「京阪電車の歴史を飾った車両たち」『鉄道ピクトリアル』1991年12月臨時増刊号(通巻553号)。
  • 湯口徹「1945〜60年代の京津線」『鉄道ピクトリアル』2009年8月臨時増刊号(通巻822号)。
  • 中山嘉彦「日本初の連節車 京阪電気鉄道60型 びわこ号 登場の謎とその生涯」『レイル』103、2017年。

外部リンク[編集]