五式四十粍高射機関砲

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五式四十粍高射機関砲
種類 高射機関砲
原開発国 大日本帝国の旗 大日本帝国
運用史
配備期間 1945年
配備先  大日本帝国陸軍
 大日本帝国海軍
関連戦争・紛争 第二次世界大戦
開発史
製造業者 小倉陸軍造兵廠(大日本帝国陸軍)
横須賀海軍工廠機銃工場:製作用図面、横須賀工場:銃身、日立造船:銃架(大日本帝国海軍)[1]
諸元
重量 2,700kg
全長 5,600mm
銃身 2,400mm[1]

口径 40mm
仰角 +10度から+95度[1]
旋回角 360度
発射速度 120発/分
初速 960 m/s[1]
有効射程 有効射高3,000m[1]
最大射程 10,000 m(最大射高8,000 m)[1]
装填方式 4発入りクリップ止め[1]
照準 環式オープンサイト[1]
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五式四十粍高射機関砲 (5しき40みりこうしゃきかんほう)は、第二次世界大戦期に大日本帝国が製造した対空機関砲である。

概要[編集]

太平洋戦争序盤、マレー作戦によりマレー半島を占領した大日本帝国陸軍は、ボフォース 60口径40mm機関砲イギリス軍から鹵獲した。南方軍はシンガポールジャワ島で計60門を捕獲、うち2門を陸軍技術本部に送り、弾薬の設計製造を行った。この機関砲の能力が非常に優れていたため、日本軍でもコピーして使用することを試みた。しかし製造に手間取り、陸軍では終戦間際に国産として2門が完成したにとどまった。完成したのは1945年(昭和20年)5月に2門である[2][3]。7月には押収したボフォース40mm高射機関砲を改造して3門が完成した[3]

陸軍での調達計画は110門、うち昭和20年中に35門を生産する予定だった[3]

弾薬[編集]

終戦当時、大阪の枚方製造所では三式高射尖鋭弾の完成品が13,000発存在した。京都の山科精工所では22,000発の完成品および半途品が存在した。和歌山鉄工所では両方合わせ82,000発があった[4]

弾種は三式高射尖鋭弾で、全重2.21kg、一式瞬発自爆信管を弾頭に装着し、弾量は1kgである。弾体中央部には起爆筒が収められ、炸薬が詰められている。弾体内部の後部には曳光剤点火具と曳光剤を充填している[4]

海軍の生産[編集]

大日本帝国海軍では、同砲を神島型敷設艇海防艇の艦載砲として採用しており、陸上配備用のものも含め横須賀海軍工廠で15基、豊川海軍工廠で20基を製造したといわれている[5]

参考文献・脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 石橋孝夫「日本軍最後の『艦載機関銃』」『』808号、P140-143、2013年
  2. ^ 藤木平八郎「ボフォース40ミリ機銃物語」『世界の艦船』375号、P92-97、1987年
  3. ^ a b c 佐山二郎『日本陸軍の火砲 機関砲 要塞砲 続』光人社(光人社NF文庫)、2012年、137頁
  4. ^ a b 佐山二郎『日本陸軍の火砲 機関砲 要塞砲 続』光人社(光人社NF文庫)、2012年、144頁
  5. ^ 梅野和夫「日本海軍の海防艇について」『世界の艦船』320号、P104-105、1983年

関連項目[編集]