リチャード・ポール・パヴリック

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リチャード・ポール・パヴリック

Richard Paul Pavlick
生誕 (1887-02-13) 1887年2月13日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューハンプシャー州ベルモント英語版
死没 (1975-11-11) 1975年11月11日(88歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューハンプシャー州マンチェスター
職業 郵便局員
著名な実績 1960年12月にジョン・F・ケネディ次期大統領の暗殺を企て、失敗。
犯罪者現況 精神障害と認定され、1966年12月に釈放。
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リチャード・ポール・パヴリックRichard Paul Pavlick, 1887年2月13日 - 1975年11月11日)は、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州の退職した郵便局員であり[1]、当時上院議員次期大統領であったジョン・F・ケネディ暗殺する目的でストーキングしていたことで知られる。パヴリックは1960年12月11日フロリダ州パームビーチでケネディをダイナマイトで爆殺するため準備していたが、ケネディが妻子連れであったために中止した[2]。パヴリックは改めて暗殺をするつもりであったが、実行前に逮捕された[3]

事件前の経歴[編集]

パヴリックは1887年2月13日にニューハンプシャー州ベルモント英語版で生まれた[1]第一次世界大戦中は陸軍に所属し、その後はマサチューセッツ州ボストンで郵便局員として働いた。1950年代に退職してベルモント英語版に転居した。パヴリックには家族がいなかった[1]。彼はアメリカ国旗が正しく揚げられなかったことに対する苦情を含む、怒りにまみれた政治的発言をすることで地元の会合で知られるようになった[4]。彼はまた政府を批判し、カトリックを憎み[3]、そしてケネディ家と彼らの富にその怒りの矛先を向けた。さらにパヴリックは地元の水道会社が町の水に毒を入れているのではないかと疑っていた[4]

暗殺未遂事件[編集]

ケネディが1960年の大統領選リチャード・ニクソン副大統領を破ると当時73歳だったパヴリックはケネディ暗殺を決意した。彼は自分の財産を地元のユースキャンプに引き渡し、わずかな所有物をビュイックに詰め込んで姿を消した[1][3]。その後すぐにベルモントの郵便局長は「大それた」自分の話を耳にするだろう書かれたパヴリックからの奇妙なはがきを受け取った[3][1]。局長ははがきの消印の日付と場所がケネディの動向と一致していることに気がつくとシークレットサービスに通報した[1]。シークレットサービスは地元民に聞き込みを行い、パヴリックが以前に発していた暴言や最近ダイナマイトを購入したことを知った[1]。パヴリックはマサチューセッツ州ハイアニス・ポート英語版にあるケネディの屋敷を訪れ[3]、セキュリティを確認しながら写真を撮った。

12月11日日曜日の午後10時前、ケネディがパームビーチの聖エドワード教会でのミサに行く準備をしていたとき[1]、パヴリックはダイナマイトを積み込んだ車で爆殺するために待ち伏せをしていた。しかしながらパヴリックはケネディが妻のジャクリーンと2人の小さな子供を連れているのを見ると思いとどまった[1][5]。パヴリックは後に「彼女や子供たちに危害を加えたくなかった」と述べた[1]。その後数日のあいだにパヴリックは次の機会を待って教会の内部を調べていたが、一方でシークレットサービスは地元パームビーチ警察にパヴリックの車を捜索するように通知していた[1]

4日後の12月15日、パームビーチ警察のレスター・フリーによってロイヤル・ポインシアナ橋を渡るパヴリックの車が発見された[3][1]。逮捕後にパヴリックは「ケネディは金でホワイトハウスと大統領の地位を買った。ケネディが大統領に就任するのを阻止したいという狂気の発想を持っていた」と供述した[6]

1961年1月27日、パヴリックはミズーリ州スプリングフィールド連邦医療センター英語版収容され、その7週後にケネディ暗殺未遂で起訴された[1]テッド・ソレンセンによると、パヴリックのことを知ったケネディは「ただ困惑していた」という[3]

事件後[編集]

ケネディがテキサス州ダラス暗殺されてから10日後の1963年12月2日にパヴリックに対する告訴は取り下げられた[1]。判事のエメット・クレイ・チュート英語版はパヴリックは精神障害者で行動の正誤の区別ができないと判断し、精神病院に留まるように命じた。1964年8月に連邦政府も起訴を取り下げ、最終的にパヴリックは1966年12月13日にニューハンプシャー州立病院英語版を退院した[1][2][5]

1975年11月11日、パヴリックはニューハンプシャー州マンチェスター退役軍人省病院英語版で88歳で亡くなった[1][3][7]

大衆文化での描写[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Oliver, Willard; Marion, Nancy E. (2010). Killing the President: Assassinations, Attempts, and Rumored Attempts on U.S. Commanders-in-Chief: Assassinations, Attempts, and Rumored Attempts on U.S. Commanders-in-Chief. ABC-CLIO. ISBN 9780313364754. https://books.google.com/books?id=M9_BSXV_s_4C&pg=PA164&dq=richard+paul+pavlick&hl=en&sa=X&ei=kkxqVP_-BJesyATk6YHgCw&ved=0CCoQ6AEwAg#v=onepage&q=richard%20paul%20pavlick&f=false 
  2. ^ a b Hunsicker, A. (2007). The Fine Art of Executive Protection: Handbook for the Executive Protection Officer. Universal-Publishers. ISBN 9781581129847. https://books.google.com/books?id=nxDyGK-iLiYC&pg=PA48&dq=richard+paul+pavlick&hl=en&sa=X&ei=uJ5_VMToA82yyATYo4LwBg&ved=0CCoQ6AEwAg#v=onepage&q=richard%20paul%20pavlick&f=false 
  3. ^ a b c d e f g h Russo, Gus; Molton, Stephen (2010). Brothers in Arms: The Kennedys, the Castros, and the Politics of Murder. Bloomsbury Publishing USA. ISBN 9781608192472. https://books.google.com/books?id=rFE7nTO-iLcC&pg=PA89&dq=richard+paul+pavlick&hl=en&sa=X&ei=uJ5_VMToA82yyATYo4LwBg&ved=0CDYQ6AEwBA#v=onepage&q=richard%20paul%20pavlick&f=false 
  4. ^ a b Duckler, Ray (2013年9月27日). “Ray Duckler: Years ago, the Belmont postmaster delivered”. Concord Monitor. http://www.concordmonitor.com/home/8675656-95/ray-duckler-years-ago-the-belmont-postmaster-delivered 
  5. ^ a b Ling, Peter J. (2013). John F. Kennedy. Routledge. ISBN 9781134713257. https://books.google.com/books?id=3UXhAQAAQBAJ&pg=PA89&dq=richard+paul+pavlick&hl=en&sa=X&ei=uJ5_VMToA82yyATYo4LwBg&ved=0CEIQ6AEwBg#v=onepage&q=richard%20paul%20pavlick&f=false 
  6. ^ Greene, Bob (2010年10月24日). “The man who did not kill JFK”. CNN.com. 2020年11月3日閲覧。
  7. ^ “Richard Pavlick, 88, accused of JFK threat”. The Boston Globe. UPI: p. 27. (1975年11月12日). https://www.newspapers.com/clip/55122279/richard-pavlick-88-accused-of-jfk/ 2020年7月10日閲覧。 

外部リンク[編集]