モショエショエ2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モショエショエ2世
Moshoeshoe II
レソト国王
在位 初代:1966年10月4日 - 1990年11月12日
第3代:1995年1月25日 - 1996年1月15日

出生 1938年5月2日
イギリスの旗 イギリス保護領バストランドモリジャ
死去 (1996-01-15) 1996年1月15日(57歳没)
王太子 レツィエ3世
配偶者 マモハト王妃
子女 レツィエ3世
家名 セーイソ家
父親 シモン・セーイソ・グリフス
母親 マンツェボ・アメリア・マツァバ・サンペ
テンプレートを表示

モショエショエ2世Moshoeshoe II1938年5月2日 - 1996年1月15日)は、レソト国王(初代、第3代)。モシェシェ2世とも表記される[1]

英国領バストランド首長(第7代)を歴任。

経歴[編集]

モショエショエはオックスフォード大学に留学後、1960年にコンスタンティン・ベレン・セーイソとして英国保護領バストランドの首長に就任し、1966年にレソトが独立を果たすとそのまま国王へ即位した。

モショエショエの政治力は強くなく、統治中に2度亡命を強いられている。独立当初、レアブア・ジョナサン首相と対立して敗れ、1970年に一時オランダへと亡命している。同年中に首相との和解が成立してモショエショエは帰国し、実権を持たない立憲君主となった。1986年ジャスティン・レハンヤによるクーデターが成功すると、モショエショエは一時実権を回復するが、レハンヤと対立して、1990年に再びイギリスへと亡命した。レハンヤは国内にいる王太子をレツィエ3世として即位させ、11月にモショエショエは王位を剥奪された。しかしレツィエとモショエショエの関係は悪くなく、1991年エリアス・ラマエマ軍事評議会委員によってクーデターが起き、レハンヤが追放されると、レツィエはモショエショエへの王位の返還を表明。これに反対する政府とレツィエは対立を深め、1994年にレツィエはクーデターを起こしてモショエショエへの王位の返還を求めた。このクーデターは他国の介入により解決が図られ、王権が制限される一方で王位の返還は認められ、1995年、モショエショエは再びレソト国王となった。しかし即位1年後の1996年1月15日、交通事故によりモショエショエは崩御し、王位は再びレツィエに戻った[2]

日本との関係[編集]

1989年1月に昭和天皇が崩御し、同年2月24日に皇居で執り行われた大喪の礼には、レソトからはモショエショエ2世を代表に、ラマエマ軍事評議会委員、メケツィ駐日次期大使(当時の駐日レソト大使は北京常駐の兼轄)が参列した[3][4]。但し、1990年11月12日に明仁上皇(平成当時は天皇)の即位の礼が行われた時点では既に失脚しており、ラマエマ軍事評議会委員がレソト代表として参列している[5]

脚注[編集]

  1. ^ 外務省: レソト王国 基礎データ
  2. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 P432-434
  3. ^ レソト基礎データ | 外務省
  4. ^ 外交青書(1989年版)』 5.「昭和天皇大喪の礼」に参列した国及び国際機関の代表
  5. ^ 外交青書(1991年版)』 7.「即位の礼」に参列した国及び国際機関の代表

関連項目[編集]

レソト王室
先代
レツィエ3世
レソトの旗 国王
第3代:1995 - 1996
次代
レツィエ3世
先代
即位
レソトの旗 国王
初代:1966 - 1994
次代
レツィエ3世
先代
シモン・セーイソ・グリフス
マンツェボ・アメリア・マツァバ・サンペ
※ 代理
レソトの旗 バストランド首長
第7代:1960 - 1966
次代
国王即位
先代
レツィエ3世
レソトの旗 セーイソ家当主
第11代:1994 - 1996
次代
レツィエ3世
先代
マンツェボ・アメリア・マツァバ・サンペ
レソトの旗 セーイソ家当主
第9代:1960 - 1990
次代
レツィエ3世