メテオール (駆逐艦)

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「メテオール」

メテオール (SMS Meteor) は、オーストリア=ハンガリー帝国海軍駆逐艦ないし水雷砲艦

1884年、造船技師Viktor Lollokは排水量331トン、長さ56.8メートル、2軸推進で速力18ノットの水雷艇駆逐艦を海軍に提案するが、却下された[1]。Lollokはドイツ帝国シーシャウドイツ語版社の技師と共同で、1軸で速力21ノットという建造案へと修正[1]。1軸推進であることや狭隘な居住区が批判されるも、1886年12月11日にシーシャウ社との間で建造契約が結ばれた[1]。そうして建造されたのが「メテオール」である。

1886年12月に起工[2]。1887年6月15日に進水[2]。同年8月31日に竣工[2]。9月27日、アドリア海沿岸のプーラに到着した[1]

平甲板で、船首楼や船尾楼はない[3]。長さは58.74メートル、幅は7.4メートルで設計排水量360トン、満載排水量422トンであった[4]。3段膨張蒸気機関1基、汽車缶2基搭載で、出力は2700馬力[5]。1887年8月25日には23.1ノットを発揮したというが、アドリア海での試験では19.7ノットにしか達しなかった[1]石炭搭載量は200トンで、航続距離は16ノットで1455、11ノットで3400浬[2]。3本マストであったが、1904年に2本は撤去された[1]

兵装は33口径47㎜砲9門と魚雷発射管1門[2]。後に、45口径7㎝砲1門、33口径33㎜砲6門、8㎜機銃1挺、35㎝魚雷発射管2門[2]

「メテオール」はダルマチア沿岸の測量に従事するなどし、第一次世界大戦勃発時は巡洋艦艦隊の補助通報艦を務めていた[2]。第一次世界大戦に敗れたオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊して海に面する領土と海軍を失った。戦後の1920年に戦勝国となったイタリアに引き渡され、解体された[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f Austro-Hungarian destroyers in World War One, p. 23
  2. ^ a b c d e f g h Austro-Hungarian destroyers in World War One, p. 26
  3. ^ Austro-Hungarian destroyers in World War One, p. 24
  4. ^ Austro-Hungarian destroyers in World War One, pp. 24, 26
  5. ^ Austro-Hungarian destroyers in World War One, pp. 23, 26

参考文献[編集]

  • Zvonimir Freivogel, Austro-Hungarian destroyers in World War One, Despot Infinitus, 2021, ISBN 978-953-366-051-6