マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前54年の財務官)

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マルクス・リキニウス・クラッスス
M. Licinius Crassus[1]
出生 紀元前85年ごろ
死没 紀元前49年ごろ
出身階級 ノビレス
氏族 リキニウス氏族
官職 神祇官(紀元前60年-)
クァエストル(紀元前54年)
プロクァエストル(紀元前53年)
レガトゥス(紀元前49年)
配偶者 クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクスの娘
後継者 マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年の執政官)
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マルクス・リキニウス・クラッススラテン語: Publius Licinius Crassus, 紀元前85年ごろ - 紀元前49年ごろ)は、共和政ローマ末期の政務官第一回三頭政治を行ったマルクス・リキニウス・クラッススの息子。ガリア戦争で活躍した。

生涯[編集]

前半生[編集]

父はマルクス・リキニウス・クラッスス、母はテルトゥッラで、紀元前85年ごろの生まれと推測される[2]紀元前86年ごろ生まれたとされるプブリウス・リキニウス・クラッススは兄になる[3]

父クラッススは、自分をカティリナ事件の黒幕と疑ったマルクス・トゥッリウス・キケロを嫌っていたが、兄プブリウスは彼と親交を持っていた[4]。キケロからシリアにいる父クラッススに宛てた書簡の中で、プブリウスと一緒にマルクスも、愛情と美徳、人望を兼ね備えていると褒められている[5]

紀元前60年クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌスデキムス・ユニウス・シラヌスの後継神祇官として、父クラッススかマルクスのどちらかが就任したと考えられている[6]

ガリア戦争[編集]

紀元前54年クァエストルに就任し、ガイウス・ユリウス・カエサルの配下となってガリアで戦い[1]、ガリアで越冬する軍団指揮を、レガトゥスのルキウス・ムナティウス・プランクスガイウス・トレボニウスと共に任された[7]。レガトゥスのクィントゥス・トゥッリウス・キケロネルウィイ族の攻撃を受けると[8]、カエサルに強行軍で来るよう呼び出され、捕虜や物資が集積されているサマロブリウァの守備を任された[9]。翌紀元前53年も続けてガリアで戦い[10]、カエサルと共にメナピィ族を焼き討ちし、降伏させた[11]。兄プブリウスも紀元前56年までカエサルの下でレガトゥス(副官)を務め、戦果を挙げている[12]

その後[編集]

グナエウス・ポンペイウスがカエサルの攻撃を受け、ブルンディシウムからエピルスに逃げると、カエサルはヒスパニアに残るポンペイウス軍を掃討してローマ市へ戻り[13]紀元前49年、おそらくレガトゥスとして[14]ガリア・キサルピナの守備をマルクスに命じた[15]。その後すぐ亡くなったものと考えられている[3]

家族[編集]

紀元前63年もしくは62年ごろ、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクスの娘メテッラと結婚し、マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年の執政官)を儲けた。アッピア街道沿いに残る妻メテッラの墓(チェチーラ・メテッラの墓)には、ガイウスのガリアでの活躍がモチーフとなった装飾が施されている[16]

脚注[編集]

  1. ^ a b MRR2, p. 223.
  2. ^ Syme, pp. 403–405.
  3. ^ a b Syme, p. 407.
  4. ^ プルタルコス, クラッスス、13.4.
  5. ^ キケロ『友人宛書簡集』5.8.2
  6. ^ MRR2, p. 182.
  7. ^ カエサル, 5.24.3.
  8. ^ MRR2, p. 226.
  9. ^ カエサル, 5.45-47.
  10. ^ MRR2, p. 230.
  11. ^ カエサル, 6.6.1.
  12. ^ MRR2, p. 212.
  13. ^ アッピアノス, 2.40-41.
  14. ^ MRR2, p. 268.
  15. ^ アッピアノス, 2.41.
  16. ^ Syme, p. 408.

参考文献[編集]